Sat Feb 17 2018

できれば黙っていたい。それでもこうして口を開くのだから、やっぱり俺は今日も有害だ。

何かを言っているようで、何も言っていないひとがいる。それは卓越した技術だ。排気ガスだけ撒き散らし、1mmも前に進まない。事故は起こらない。どこにも出かけない。

さて、そろそろ今回(始まりは2016年8月17日)の日記も閉じようかと思う。
中にはそれなりに有意義なものもあるが、今後は俺がひとり楽しむためだけのものになる。

なので、ここを読まれる稀有なみなさまにおかれましては、それぞれ気になったものなどをスクラップ的にコピーしておいてもらえればと思います。

あたらしい日記は、明日になるか来週になるか、どちらにしろそうとおくない先に同じくここに書かれますが、いまここにあるものはここからなくなります。
それを繰り返すことでなんとかこの日記は書かれ続けているので、仕方のないことなのです。

それでは、みなさま、ごきげんよう。

Mon Feb 12 2018

いまひとつ優れない日々。

仕事の資料として若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』を読み始める。読み終えてはいない。分量的に一息で読んでしまうべき小説だが、そんな集中力もない。ちなみに、前回の日記に記した赤野工作『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』は、いろいろな瑕疵が気にかかってしまい頓挫。
テレビで少し平昌五輪を観る。

きっとだんだんといろいろなことが面倒になる。新しい関心や興味を抱くことが億劫になる。それはつまり、努力しなければ無意識に排除してしまうようになっていく、ということかもしれない。
関心を持つ、ということは、自然にできることではない。いろいろなことに興味がある、という状態は、そうなるように苦労したからそうなっている。そうなりたいと本心で思っていなければそうはならなかったはずである。
楽しみたい。それが叶わなかったからといって、嫌いになったり無関心になることはないじゃないか。それは、ただたんなる衰えでしかなく、つまらないことだ。
きっと昔話に時間を費やし日が暮れる。そんなふうな景色を想像することはとても容易い。

上のパラグラフのようなことを、わざわざ言うこともなくなるだろう。わざわざいうことでもない、と思い、実際に口を閉ざすようになるだろう。それで消えてなくなるのならば悪くもないが、言葉はいつも危ない。また同じ話。繰り返し。あえて冗長に語ろう。わかったような顔をして、その頭にはもうなにも入らない。誰も掃除はしてくれない。空き容量が無いので動かない。大量のコピーがそこには記憶されている。

Wed Feb 7 2018

半月も日記が空いた。

前回の日記は、東京に雪が積もった翌日に付けていた。
その後、雪の降る冷え込んだ夜はあったが、ふたたび積もることはなかった。
それなのにまだ、日陰には雪だった氷のかたまりが散見できる。

さて、なんとか半月の空白を取り繕う記述をしようとTwitterや手帳を見たが、これといったものは見当たらない。

1月31日は、「スーパーブルーブラッドムーン」と呼ばれる皆既月食があったが、自宅からはよく見えなかった。
あとは、書き仕事が思うように進まず困っていたのと、ビデオゲーム。体調の悪い日が多かったと思う。

シアトルのラジオ局KEXPでのライブを配信しているYouTubeはここ最近冴えていて(ずっと冴えているが、特に)、Broken Social SceneSlowdive。どちらも素晴らしかった。
あと、LCD SOUNDSYSTEMがアメリカのテレビ番組「Austin City Limits」で行った約一時間のライブ映像も公開されていた。

赤野工作『ザ・ビデオ・ゲーム・ウィズ・ノーネーム』を読み始める。

あと、2月5日、Twitterに、

YouTubeでslowdiveのライブ聴きながらウィキペディアで「トニー谷」の項を読んでる。こんなに寒いのに、もうすぐ春だなあと思う。

という、よくわからない感慨を書き記していた。

今朝は電気グルーヴの楽曲名『弾けないギターを弾くんだぜ』のような言葉を考え続けなければいけない悪夢にうなされ(16時に)起床。
消えないタトゥーを掘るんだぜ、食えないレバーを食うんだぜ、見えないカラーを見るんだぜ、焦げないバターを焼くんだぜ、知らないマザーを抱くんだぜ……、本当は、夢だったからもっと支離滅裂なはずである。

音楽はWolf Alice『Visions of a Life』。

Tue Jan 23 2018

20日もまた22時まで眠りこけてしまい、このままでは一生お出かけできないので、平山夢明『ダイナー』を読みながら21日の夜明けを待つ。
読了後、家の掃除を少しし、出発。帰省と、人と会うのが目的。

13時、文化庁メディア芸術祭京都展「Ghost」に。高嶺格『歓迎されざる者』を観る。
インスタレーションであるその空間は、高嶺さんの作品に通底する、すっきりとしたレイアウトなのだけれどもそれでいて無機的ではない独特の感触。
椅子が一脚。そこに掛ける女性が詩を読んでいた。
詩は元来、発声されるものであったが、やがて、書かれ、そして読まれるものとなったため、ずいぶんと昔から黙読されるものでもある。
女性は詩を音読していたため、手元にはそれが書かれた本があった。だから、その空間は、わたしたちがいれば、わたしたちに読み聞かせる空間となった。
おそらく誰もいない時も詩は読まれていただろう。ただ、観るものが知ることのできるその場所は、読み聞かせが行われる空間でしかないため、ほんとうのところはわからない。

ここ三年ほど、「歌」と、それを「歌う」ことについて考えてきた。拙作『イサナの歌』はそういう小説でもあったが、それを書き終えたいまもまだ、「歌」と、それを「歌う」ことについての思考は続いている。いま手掛けている『電子のテルマ(仮)』にもその思考の変遷は反映されるだろう。
現代において、「詩」を音読するものは、あるいは「歌」を歌うものは、どのような場所でならば歓迎されるのか。それは、歌手や詩人の話ではない。最高に小さな歌の話である。

展覧会を後にし、出町柳の喫茶店に。年齢不詳のウエイトレスがいて驚く。綺麗なひとだったが、一見老いて見える。ところが声はとても若く美しい。

夜、友人と会食。深夜に大阪の実家に帰る。

22日。大阪は曇天でとても冷えた。東京では雪が降ると再三報じられていた。
浅い夜、梅田まで移動し長年通っている美容室に。といっても、約三年ぶり。店は名前も内装も変わっていたが、懇意の美容師は変わらずだった。
理髪を終え、コーポ北加賀屋、千鳥文化に。
西光祐輔さんの個展『THE NIGHT』。とても良かった。コーポ北加賀屋と千鳥文化の二箇所で行われていた展示はそれぞれ趣が違い、どちらも良かったが、特に千鳥文化でのものが好きだった。
千鳥文化では西光さんがバーをやっていて、そこで西光さんをはじめ、ひさしぶりに会う方々、そうでもない友人と過ごす。
午前様で実家に戻る。

23日。22日の夜遅くに飼い猫の世話を頼みこの日も誰かと会うつもりだったが、都心の雪の影響で22日の飼い猫の世話が夕方となってしまったため朝から帰路に。
昼過ぎに戻った東京は雪がたくさん残っていたが、晴れていてあたたかかった。

Fri Jan 19 2018

昨日の日記を「(出掛ける)準備をしないと……」と締めたにも関わらず、20時過ぎに起床してしまった。よくない眠り方をしてしまったせいだ。
で、起床後すぐに小室哲哉の引退会見があったことを知る。また、オウム真理教関連の事件の裁判が近々終結するため、死刑囚らの死刑執行が検討されはじめたとの報道。
なんども90年代は終わったが、90年代は全然終わらない。
90年代は終わったし、90年代はいまも終わっている。このうんざりするトートロジーは、2018年のいま、18年もの間、90年代の「破壊のターム」が続いていることを意味している。TKが引退するのも、法の下、(オウム真理教関連の事件で裁かれた)死刑囚たちが全員殺されるのも、90年代の終わりにはならず、90年代の「破壊のターム」の激化を意味することとなる。
でも、当たり前のこととして、いまは2018年だ。阪神大震災からは23年の時が流れた。そして90年代の「破壊のターム」は帰結のごとくディストピアを自動生成し続け、そのような老化を続けた。なぜ90年代は終わらないのか。世紀末は繰り返され、いま生きている我々が知る唯一の世紀末は90年代だけだからだ。なんども終わり、終わりの始まりを繰り返し、だから終わらない。死体が山積みにされてゆくだけである。