Sun Nov 19 2017

前回が今月10付なので、9日ぶりの日記。
17日、18日は帰省と観劇を兼ねて京阪に。やはり京都は冷えると感じたが、全国的にこのあたりから寒くなっていたようで、いよいよ冬っぽい。
駅のホームという場所は特に冷える気がする。寒くなると駅のホームで電車を待ちながら、どこか知らないなにもないような場所へ行って心寂しくなり落ち着きたいなどと思うことが時折あり、実際にそうすることも珍しくないのだが、そのたびにもれなく希望通り心寂しくなりなぜこんなことをしているのか、早く帰宅しよう、となる。

ここ数日は、大抵の勤め人からすれば日常よりもゆとりのあるスケジュールと感じられるだろうが個人的にはわりと慌ただしい日々で、いよいよ今日を乗り切れば少し落ち着くと思っていたのに、今朝、つまずく。昼過ぎ、予定をひとつ飛ばしてしまったのでふて寝。ふて寝だっただけあり、なんだか沈鬱となる夢を見た感触で起床。外はすでに暗く寒い。
仕方がないのでビデオゲームをしていたのだけれども、そのビデオゲームの中で「敵に勝利し栄光を勝ち取れ」というようなことを言われる。
ふと思ったが、「栄光」や「誇り」、つまり「名誉」という言葉に関して、意味や、謝意を伝える意として「光栄に思う」などと応える気持ちはわかるものの、本質的な体感からその言葉を使ったことがこれまでに無かったことに気が付く。これまで一度も名誉なことのない人生だっただけなのかもしれないが、それというよりは、自分の評価というものに関して、自らのものにしか関心を持ってこなかっただけのようにも思う。
そうなると、他者を介在しない評価は名誉と無関係だろうから、今後の人生も栄光や誇りを感ずることはきっとないだろう。なので、「敵に勝利し栄光を勝ち取る」ことができる人の気持ちを理解するのは本当に難しいし、そちらは多元宇宙の別次元にも感じられるというのが本音だ。放置しておいて良いことなのかというと甚だ疑問だが、もう対応可能となるのは非現実的だと理解してしまってもいる。これは、なんというか「名誉になど興味はない」というようなニヒルな発言ではなくて、悲しくも寂しくもない断絶の向こう側を茫漠と眺めている虚しさの話である。

さて、時間つぶしに書いていた日記だが、もう時間だ。

Fri Nov 10 2017

風邪をひいた。
喉、鼻、と流れて、いまは咳。
今朝は、咳で腰がだるま落としのように抜けてしまうかと思ったが、じょじょに快方へ。
昼過ぎ、仕事の打ち合わせで神保町に。夜、早稲田小劇場どらま館で「新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演」を観る予定だったのでそのまま早稲田へと移動したが、開演まで3時間もあり困る。早稲田大学の中を少し歩いてみるが広くてすぐに疲れる。喫煙所はずいぶんと端にあり、探すのに難儀する。大学なんてどこでも煙草が喫える印象だったが、思えば学生だったのはもうずいぶん前だ。ちなみに高専にも喫煙所はあった。購買の前の一等地。

「新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演」はとてもおもしろかった。
今回、タイトルロゴを手掛けたので安堂信也、高橋康也による訳書はその時に読んでいたのだったが、上演を観てあらためてその戯曲の凄みに触れられた気がした。
そもそも「リーディング公演」というものが、どういう経緯で生まれたのかよく知らないのだけれども、「新訳『ゴドーを待ちながら』リーディング公演」においては、その形式が仕掛けとして活かされていて、その一枚の層がテキストの持つ茫漠とした悲しみを浮き立たせていた。

……話は変わるが、なんというか、残酷で面白い時代だと思う、いまは。
すぐ隣にいると思っている人が、実はすごく遠かったりする。同じものを見ているようで、ちっともそんなことはない。そういったあれこれがうやむやにならない。輪郭を強くしつつある。だから残酷で、だから面白くもある。
いまはまだ、そのどちら(残酷と期待)にも居ることができるが、そのふたつもいずれ、すぐ隣のようで遥か向こう、絶縁してしまうのだろう。それは仕方のないことで、だからこそ、いまの可能性を愉しむことこそが知的であり、知的であることが可能性の体現である。

Mon Nov 6 2017

夜、友人に誘ってもらい、浅草酉の市の「一の酉」に足を運ぶ。
商売繁盛して忙しくなっては嫌なので、困窮しない程度にどうぞよろしくとお願いする。

おみくじは「凶」。同行のふたりも「凶」。誰のを読んでもろくなことが書かれていない。
長國寺を出る際に、三人で常香炉を囲んで煙を浴びようとしたが、風向きの関係で、唯一人のいない方向へと煙は流れていった。
「凶だからだ……」と言い合いながらその場を去る。

屋台でワンタンスープと餡餅を食って帰宅。

Sun Nov 5 2017

3日、金曜日。朝、祝日だと知る。昼、鍼灸院で鍼を打ってもらう。
2日付の日記に書いた「デジタルのテルマとAI」のことに夢中。面白くて仕方がない。

4日、土曜日。
昼、去年書いた『イサナの歌』という小説を読み返す。悲しい話だけれども、やっぱりすごく良い。

夜、友人とボルダリングに。わりあい近くに大きな施設があると知り、運動不足解消のために出向く。
中学生のころ、陸上部に所属し副部長として真面目にやっていたのに、中学三年の健康測定で足の筋力が少な過ぎる、と言われたおれだが、ボルダリングは握力や上半身の力が要っぽくて向いている気がした。

5日、日曜日。
少し運動したせいか、具合が良い。天気も良い。
Mitskiの『Puberty 2』を聴いていて、ふと、(最近はリリースがないけど)来日とかしないのかな、と調べると、今月末に東京と京都にバンド編成で来ることを知る。しかもチケットが残っていた。
京都は(CLUB)METROに来るみたい。あのサイズの箱でバンド編成のMitskiが観られるのはうらやましいが、LIQUIDROOMのチケットを買う。
能動的にライブに行くのは、いつぶりだろうか……。三村京子さんの『いまのブルース』のリリースライブ以来じゃないかな……。

Thu Nov 2 2017

去年の初頭まで『イサナの歌』という表題の小説を書いていたのだけれども、ひとつのお話を終わらせようとすることは無数のお話が零れ落ちるということでもあり、大抵はその中の幾つかがあたらしいものの芽になる。
『イサナの歌』を書き終える頃に考え始めたお話があって、それは近未来に、人里離れた場所に暮らす六人姉妹の物語だった。
もう考え始めて二年近く経つのだけれども、書き始めてはいないことに特に理由はない。もう書き出すには十分の状態が続いている。

先日、仕事の資料として『NHKスペシャル チベット死者の書』をDVDで観ていると、「埋蔵教」という言葉を知った。
「埋蔵教」は「テルマ」と呼ばれる隠された経典のことである。「チベット死者の書」はその代表的なもので、8から9世紀頃に書かれたものだが、山中に埋められた(その後、14世紀の中頃にある人物によって発掘されたとされる)。
これは「いずれ必要となった時に掘り起こす者が必ず現れる」という考えにもとづく行為なのだという。
余談だが、不思議に感ずるのは、それは「いまは要らないもの」として書かれたのかどうかということ。いまは要らないが、いずれ必要となる、という意識だとすれば、それは予見の書のようなものでもあるのだろうか。
閑話休題。で、その「埋蔵教」のあり方に触発されたのは、「人里離れた場所に暮らす六人姉妹」が、山奥の洞窟で古い人工知能を搭載したコンピュータを発見する、というのがそのお話の冒頭となる予定であったからだ。
ああ、だったらこの「機械」は「埋蔵教」であるのかもしれない、と。

そんなわけで、今月1日深夜、以下のようなツイートをする。

いまは、「デジタルのテルマ」について考えている。時代遅れとなったAIが、山深い場所に捨てられている。それを、両親が行方不明となった六人姉妹が見つける。そういうお話。

「デジタルのテルマ」という言い回しは、テルマには「大地のテルマ」と「霊感のテルマ」と呼ばれる種類があり、そこに影響されたからだったのだが、あらためてツイートを読むと、「これ、青山テルマの話だと思われないかな……」と不安になったため、以下のような補足説明を行った。

ここでいう「テルマ」は青山テルマのことじゃなくて、チベットの埋蔵教を指します。

翌2日の朝、友人から上のツイートに返信があり、「青山テルマの話だと思ったし、AIも歌手のAIのことだと思った」とのこと。

歌手のAI!
そうなると、「時代遅れとなったAIが、山深い場所に捨てられている」というのはたいへんひどい姥捨のような話になってしまうし、「デジタルの(青山)テルマ」とはなんなのか。

そもそも、「デジタルの」ではなく、ただたんなる「青山テルマ」のこともおれは良く知らない。「AI」はたぶん、コカコーラのCMの歌を歌っているヒップホップなファッションの強そうな女性である。彼女は時代遅れとなってしまったため山深い場所に捨てられていることになっている。それを「両親が行方不明となった六人姉妹が見つける」わけだが、なぜそれが「デジタルの(青山)テルマ」なのか。

上に載せたのは、青山テルマ feat.SoulJa『そばにいるね』のMVである。
上記のような流れがあるため、その歌詞は「時代遅れとなってしまったため、山深い場所に捨てられていることになっているAI」に向けられているように感じられる(余談だが、時代遅れとなった機械が山奥にあり、それが両親が行方不明となった六人姉妹に発見されるという冒頭の流れは、どうしても楳図かずおの超絶傑作『わたしは真悟』における「真悟」の役割を意識してしまい……、「真悟」が最期に遺したのは「アイ」の二文字である。「そして、あとに……アイだけが……残った。」)。

ちなみにテルマと共に歌うSoulJaだが、「SoulJa Official web site」によると、

現地ラッパーたちから一流の称号「SoulJa」※を授かる。
※「ソウル」と「神」を現わすスラングの一種。

テルマと共に「そばにいるね」と「AI」に向けて歌うのは「魂と神(のくだけた表現)」ということになった。

ここまで考えてきたことによって、もしかすると青山テルマは「両親が行方不明となった六人姉妹」のひとりなのではないかと思えてきた。
テルマは姉妹の何番目かは不明だが、とにかく他の姉妹たちと共に「AI」を山奥の洞窟で発見する。だけどそれは近未来の話で、「AI」はどのような姿でそこに居たのか、あるいは、テルマと魂と神との出会いはどのように? 上の映像の中でテルマが歌う「部屋」はどこなのか(東京タワーが見える時があるが—-「アオヤマ テルマ 333ノ テッペンカラ トビウツレ」—-、窓の景色は常に移り変わってゆく)……。

わからないことばかりだが、このように、焦れずにいると物語は時折暴発する。

いまは、「デジタルのテルマ」について考えている。時代遅れとなったAIが、山深い場所に捨てられている。それを、両親が行方不明となった六人姉妹が見つける。そういうお話。

そうだった。「テルマ」は「デジタル」となってしまっているのだった。

デジタルデータとなったテルマは魂と神の助けを借り、固定化されない部屋の中で「AI」に向けて「そばにいるね」と歌うのである。

(いや、待て、いま風呂に入ってきたんだけど、その間にうっかりしてたって気付いたのは、違うよ「デジタルのテルマ」こそが「AI」である、ってのが基本なのを忘れてるじゃないか。……あ! だからあれか—-「デジタルデータとなった電子のテルマは「魂」と「神」の助け(feat.SoulJa)を借り、固定化されない部屋(偏在? あるいは電子化された状態を可視化したヴァーチャル空間?)の中で「AI(デジタルデータとなったテルマの失われた肉体)」に向けて「そばにいるね」と歌うのである」—-ってことか!)

なんだか全然わからないが、とにかく大変なことになっている。
人間に過ぎない書き手としては、これ以上わけがわからなくなる前に実体を固定化させる(書き始める)べきである。