Mon Mar 20 2017

18日、深夜。終電を逃してしまい、夜道を歩いて帰ることに。これはずいぶんかかるだろうなあ、とげんなりしたのだけれども、考え事をしながら歩いていたら、あんがいとすぐに帰宅できた。
それで思ったのは、おれは学生時代、陸上や水泳といった、孤独で単調な運動をする部活に入っていたのだけれども、そこで何を培ったのかというと、部活の時間がはやく終わるように、走り続けたり泳ぎ続ける苦しみを和らげるように、そのための簡単には途切れない考え事をする技術だったのか、と。強い精神力だとか、勝負強さだとか、そういうものは一切会得せず、無意識に逃げるための技術を学んでいたようだ。

そんなわけで、精神的に追い詰められたりすることはほとんどないのだけれども、傍目には繊細で打たれ弱く見えるようで、前回の日記からの空白の期間に、大学時代の同級生、後輩、同級生兼元妻と新宿で呑んだのだけれども、「もきち(飼い猫)が死ぬ前に、絶対に別の猫を飼い始めろ」と元妻と後輩に助言されたのだった。おれは、わりあい身近な存在が死んでしまうことには耐性があると自負しているので、そのことを伝えるも、だとしてもだ、とのこと。
確かに、もきちが死んでしまったりすれば、亡骸を抱えて、それが冷たくなる前に断崖絶壁から飛び降りるくらいのことはしてしまうかもしれないが、とはいえそんなふうにひとを不安にさせる感じがじぶんにあるのだとすると、それは一体、どんなところからなのか、とすこし気になる。

18日、友人に誘ってもらい、餃子パーティ。餃子をたくさん食う。そこでもおれの印象をいろいろと聞かせてもらう。
15日、池袋で仕事の打ち合わせ。うっかり無精髭を生やしたまま赴いてしまったせいか、最近疲れているのかと聞かれる。

と、いろいろとひとから教えてもらった自分の情報をざっとまとめると、以下のような感じだ。
まず、15日は疲れて見えていたが、18日は以前(数ヶ月前)より若々しく、キュート。でも、昨年末の我が家はどんよりとしていたらしく、日頃掃除しない場所も掃除をしたほうがよく、もきちが死ぬ前に別の猫を飼うべきで、それはともかく、大学生の頃と比べるとずいぶん温厚になったらしい。

14日、近くの税務署で確定申告を済ませる。
17日、夕方からずっと飼い猫の細い毛が口腔の奥に張り付いていて、翌朝まで気になっていた。ふだん、ほとんどガムは噛まないが、ひさしぶりにガムを噛み、その粘着力に期待しようかとも考えたが、結局寝て起きたら毛はどこかに(おそらく胃)消えていた。
日記を書いているいまは、21日の未明。デザイン、ライティング、コーディング、それぞれの仕事が並行しており、作業量はさほどでもないのだけれども、その振れ幅の大きさに翻弄されている。ピニャ・コラーダが飲みたい。

Wed Mar 8 2017

夕方、Mitskiの『Your Best American Girl』を、低音を体感できる程度のボリュームで聴いていたら、サビの手前でもきちが鳴いて、見下ろすとわたしの膝に彼は乗って、それからサビが部屋に流れ出して、

Your mother wouldn’t approve of how my mother raised me
But I do, I think I do
And you’re an all-American boy
I guess I couldn’t help trying to be your best American girl
Mitski 『Your Best American Girl』

抱きかかえられた彼はわたしの背後の、笑うDavid Bowieのポスターを見上げて、その瞳の青い色はとても綺麗で、もっとも美しい、暗くなり始めた部屋に薄い青色の透明の綺麗な、きっと、みんなのそれぞれのもっとも美しい、それと同じくらいのもっとも美しい目がいつのまにかこちらをじっと見ている。

Tue Mar 7 2017

5日、思い立ち、鍼灸院に。
兼ねてから、首筋の凝りがひどいことに気付いてはいたのだったが、良く行く鍼灸院が良心的な価格とはいえそれなりにするので躊躇していたのだった。
とはいえ最近は首筋が固まり過ぎたせいで睡眠の質が悪く、寝汗を流すため風呂を浴びたついでに出向くことに。
風呂を浴びたついで——、というのは、あまりに強張った状態で鍼を打ってもらうと、気分が悪くなることが何度かあったからだ。ほぐしてもらうためのほぐす行為が必要なほどに首筋は凝り固まっていた。

ところで、鍼灸院で鍼師と話していて気付いたのは、昨年の10月に飼い猫が具合を崩したその前から来院していなかったということだ。具合を悪くした飼い猫を連れていった動物病院はその鍼師に教えてもらったものだったのだけれども、鍼を打たれながら、そのお礼を伝えていなかったことに思い当たる。

すっかり楽になり、脱力した足取りで帰路に。道中、どう見ても殺し屋にしか見えないファッションの男性とすれ違ったのですこし肩に力が入るも、帰宅後はひどい寝汗をかかずに熟睡。

Thu Mar 2 2017

ここ二回、特殊な日記だったので、今日はふつうに書こう。

——と宣言したのに、つらつらとわけのわからないことを書いてしまったので、それは消しました。危ないところだった。日記を書くつもりだったのに……。

3月だ。
3月といえば、家賃を滞納するか、あるいは脱税するかの選択に迫られる月だが、当然、選択されるのは前者である。ごめんなさい、大家さん。

あとは、特にないかな……。
書かなければよかったな、こんな日記。いや、まだ日記になっていないか。「3月だ」としか言ってないし……。

毎日、眠いんだよ。とにかく眠い。春が近づいている。
日に40時間は寝ているので、すごく疲れる。

Mon Feb 27 2017

とおい昔、「電脳空間」あるいは「サイバースペース」と称されたものがありまして、それはいまも名前を変えて健在です。
当時、ひとびとはその空間におもむく際、現実での名前とは別のものをおもいおもいに作成し名乗ったり、あるいは名前の無い者としてそこに存在しようとしました。なにしろ「電脳空間」と呼ばれていましたから、とても生身の肉体で出向くべき場所には思えなかったのでしょう。

名前を変えていまもあるそこに、別名および無名として存在を試みるひとはいまもいます。ただ、そこが「電脳空間」だったころと比すれば、現実での名前を併用することでそこに存在するひとが、圧倒的に増加しました。それは、そこが「電脳空間」ではなくなったからでしょう。

ところで、わたしは、むかし「電脳空間」であったそこでの存在を試みる名前(と、そこに付随する存在感)——それを「ファントム」と呼ぶのが良いのではないかと、ここ最近考えています。一般的には「アバター」と呼ばれることが多いですし、「ゴースト」という言葉もありますが、——なんとなく——「ファントム」が良い気がしています。

この日記においてもそうですが、わたしは、すべての元電脳世界において、現実と同じ名前のファントムを作成しています。それはなぜか、と問われた際、これもまた——なんとなく——、としか答えようがないのですが、ただ、名前が変わってしまえば、いろいろと作り直さなければいけないものがありますから、そのことが億劫だったのかもしれないとは思います。

さて、ここではファントムが語っています。そして現実のわたしがいる。この構造は理解に易しいかと思います。
仮にですが、ここで語っているのとは別の名前を持ったファントムを、わたしが元電脳世界に作成していたとすると、わたしとその亜種は合計4体になります。
それは、現実のわたし、現実世界と同名のファントム、現実世界と別名のファントム、現実世界と別名のファントムの実体、の4つです。
1つめと4つめは同じ存在ではないかと思われるかもしれませんが、これは似て非なるものだとわたしは考えていまして、その理由は、やはり、——なんとなく——。完全に重なりそうで重ならない違和感がそのふたつを分かつのではないかと、空想の視覚的イメージを頼りに思っています。

では、現実世界と同名のファントムを元電脳世界に作成していなかったとすれば、わたしとその亜種は何体となるか。その場合は、3体です。
それは、現実のわたし、ファントム、そしてファントムの実体、の3つです。
またしても、1つめと3つめは同じ存在に思えますし、先ほどの例よりもよりそう感じられ(る気がし)ますが、どうしてもそのふたつは重ならないのです。
なにやら複雑めいたことを述べているように思われるかもしれませんが、これらのことは、文章に起こす際に生じる複雑であって、直感的には簡単に理解できるものだと思います。

このところ、わたしの関心のあるビデオゲームを実況する動画においては、さらにもう一つの階層が追加されます。ただ、これは実況者の場合においてのみであり、そこにコメントフィードを実装している場合の、コメントをしているファントムにおいては、そうではありません。
説明しますと、実況者のファントムがプレイしているゲーム世界での存在感、というものが、もう一つの階層に追加されることになりますので、実況者においては、現実世界でのわたし(第1層)、ファントム(第2層)、ファントムが作り出したゲーム内でのファントム(第3層)、の3つがその空間に遍在することになるのです。一方、コメントを寄せるひとびとの場合は、ファントム、そしてファントムの実体の2つで、3体目は存在しません。
ですが、注意しなくてはならないのは、コメントを寄せるひとびとのファントムは、言うなれば2.5層目に存在することになります。1.5層目の場合もあるかもしれませんが、これについては、まだわかりません。
過去、これらのことを、——ただし、それは電脳世界においてのことですが——より多層化し試行した実験に、筒井康隆の小説『朝のガスパール』があります。この実験を試行するにあたって、レイヤーの数値化は不可避だったと思えますが、それは電脳世界が元電脳世界となったいまも有効で、ただ、現状の場合は、レイヤーの数値化というよりも、CSSにおける——セレクタの優先順位の計算方法を用いたカスケーディング——の応用のほうが、より整頓が可能に思えます(なんとなく)。

長々と書いていますが、そんなことを数値によって整頓してどうするつもりなのかとお思いでしょう。いちおう、目的はあります。なくはない、と言うべきでしょうか。
「りんごを手から地面に落下させる現実世界の存在」、があるとします。見ることが稀な存在ですが、それはいま関係ありませんでした。同様に、「りんごを手から地面に落下させるファントム」、「りんごを手から地面に落下させる、ゲーム内のファントム」、というものも存在し得ます。
そこからそれぞれ分岐しまして、例えば、「りんごを手から地面に落下させる現実世界の存在」が存在した場合、付随して、「りんごを手から地面に落下させる現実世界の存在——のファントム」、「りんごを手から地面に落下させる現実世界の存在——のファントム——が作り出したファントム」が自動生成されますが、「りんごを手から地面に落下させるファントム」、「りんごを手から地面に落下させる、ゲーム内のファントム」も同じく、それぞれと別の2体を自動生成しますので、「りんごを手から地面に落下させる存在」は、ゲーム実況においては、ひとりから、最多9種になることが可能です。場合によっては——著しく低い可能性ですが——、その9種が同時に遍在することも可能でしょう。

もはや、わたしも、そしてそのファントムも何を書いているのかわからなくなってきましたが、続けます(誰が?)。
ある時、ふと思ったのです。わたしが、「美しい、りんごを手から地面に落下させるファントム」を見た時、その感動を、どう言葉にすれば良いのかと。そして、その説明の際、カスケーディングではなくレイヤーを採用してしまっては、その美しさは凡庸になってしまうのだと。このことに(言葉を用いて?)正面から臨まなくては、ほんとうの電脳世界からの解放は無い——元電脳世界は続いてしまう——のだと。なんとなく、そんなふうなことを、ふと……。

……あ、そうか。あれ、だとしたら、数値化できたとしても、それを有用な速度で計算処理するのは、コンピュータの仕事にせざるを得ないのか……? いや、算盤でもやってたら、なんとかなるのかな……。小学校の時、テストの時間、エア算盤やってた友達に憧れたな……。でも、エア算盤を盲信して間違ってることもよくあったな。いや、そんなことはいまどうでも良かった。
——やっぱり、こうなると、直感ってこと? 結局? それじゃあ限度が見えてるっていうか、問題アリだから考え出したことだったような……。でもやっぱり、正直どこかで諦めている感触があるといえば、ある……。電脳世界からの解放などは不可能で、可能性があるのは、やはりそれ自体の破壊でしかないって思ってる……。でも、それじゃあダメだって、三年前、いや四年前だっけ? の夏に突き詰めて考えて、一応の回答は得たじゃないか。——とはいえ、三年前か四年前かも曖昧な体たらくじゃどうしようもないぞ……。参ったな……。この前なんか、白髪がだいぶ増えてるって自覚してたつもりなのに、鏡見たら、思ってたより白髪多かったし……。どうせなら、白人女性によく見る、金髪というよりは銀に寄ってる格好良いショートカットあるじゃない? ああいうふうになりたいな。無理か。あれ、白髪とかじゃないだろうし。とりあえず格好良いショートカットは諦めよう。でもあれだ、「美しい、りんごを手から地面に落下させるファントム」のことを伝えること、に関してはもうちょっとだけがんばってみよう。無理かもしれないけど。でも、だいたいそういうもんだよな、がんばるって……。

(——と、ここまで書いている間に、開いていたiTunesがおかしくなってしまっていて、そこには宇多田ヒカルの『Fantôme』しか残っていなかった。だからなんだって話でもあるんだけれども、そんなことってある? 驚くというより、怖いよね)

Thu Feb 23 2017

わたし、このところ御本をあまり読んでいませんでした。
購入した御本は、いつもすぐに読んでしまっていましたのに、このところは何冊も頁を繰っていない御本が机の上にありました。
今日、ようやく少し読書をしようという気が起こりましたので、高原英理という方の『ゴシックハート』という著書を読み始めたところです。とてもおもしろいですが、しばらく読書をさぼっていましたから、あまり長くは読めませんでしたね。

わたし、つい先ほどPlayStation4がDVDを再生できることに気がつきました。いままでどうしてか、Blu-rayしか再生できないものだと思い込んでいて……。ずっと昔に購入した再生機の具合が悪くて、DVDを観られず困っていたのに……。思い込みはおそろしいですね。気をつけなくてはいけないと思いました。

わたし、このところずっと紅茶を飲んでいましたから、ティーポットが茶渋で汚れてしまっていました。それが気になったから、研磨の効果のある白いスポンジ(激落ちくん)を使って、懸命にティーポットの汚れを擦り落としていたのですけれども、ふと視線を感じて振り向きましたら、飼い猫がすこし離れたところからわたしのことをじっと見ていました。
そのことがわたし、なんだか恥ずかしかったのと、ティーポットの注ぎ口の汚れは擦り落とすことが難しかったですから、Googleで妙案はないかと調べてみました。すると、重曹を使うのがよろしいとありましたので、洗面台の下の収納にそのようなものがあった気がしましたから、それを探しました。ところがあったのはクエン酸で、これは思い込みと言うよりも、勘違いでしたけれども、とにかく重曹は無く、クエン酸が見つかりました。でも、クエン酸でもティーポットは綺麗になりました。そのことが愉快でしたから、はじめて一人暮らしをし始めた時に購入した薬缶や、友人から譲り受けたT-falも綺麗にしました。T-falは、ティファールと声にしますけれども、ふつうに読みましたら、ティーファルですよね?

それにしても、この頃は風の強い日が多いですね。
ずっとお家にいましたから見ていませんが、きっとたくさんの自転車や植木鉢が転んでしまっていたのでしょうね。

Wed Feb 15 2017

今月13日、14日、15日の日記を書こうとしているいまは16日なのだけれども、13日のことがまるで思い出せない。
カレンダーによると、13日は月曜日だった。おれは、なにをしていたのだろう……。
自宅が職場だから通勤するわけでもないし、テレビ番組を見ることもほとんどなくなったため、月曜日らしさを失ってずいぶんと経つ。同様にほかの曜日の「らしさ」を感じることもすっかり減り、過去の「らしさ」——たとえば小学生の頃、木曜日は近所の英会話教室に通っていたので、学校に通うのも嫌なのにそのうえ習い事まである最悪の曜日、として認識していた——を、それも20年以上前の「らしさ」を引っ張り出してくる体たらくで、だから木曜日はなんとなく憂鬱だ。

月曜日の話だったのに、木曜日のことを書いてしまった。もう、月曜日のことは置き去りにして、火曜日に。
火曜日のことは覚えている。バレンタインデーだったから、とか、朝にめでたい報告をいくつか聞いたから、とかではなく、単純に一昨日のことだからだ。
昼過ぎ、仕事の打ち合わせのため池袋に。都市部に出て来ることはめずらしいので、良く街を見て帰ろうと思うも、なんの用事も金もないので打ち合わせを終えてまっすぐに帰る。
夜、なにか日記に書いておこうと思ったことがあったはずだが、忘れてしまった。一昨日のことなのに……。
思い付きのほとんどは忘れられてゆく。忘れられないものは、たぶん、受精を果たせる精子くらい稀有だろう。わからないけど。

15日、水曜日。特になにもなし。

Sun Feb 12 2017

写真は、爪研ぎを新調してやると、わかりやすく喜びを表現してくれているふうの飼い猫のもきちだ。金曜日のことである。
それを見て、なにか自分の物も買いたい思い、所用の帰り路にショッピングモールに立ち寄り、布団カバーやバスマットなどの実用品を買う。

土曜日はかわいい友人と北千住で呑んだ。
駅前で待ち合わせていたが、友人は車にはねられた猫を見つけてしまったため、遅れていた。猫はその後、近辺の野良猫の世話をしていたのだろうか、蕎麦屋のご婦人が引き取ってくれたらしい。
しばらく待っていると、20時にもかかわらず泥酔の男性三人組が通りかかる。カップルの女性にぶつかってしまったりと騒がしい。やがて駅前で散会し、二人になった酔っ払いだが、より酔っているほうがおれの間近で後頭部から転んで血を流し白目を剥いてしまった。そばにいた、旅行の待ち合わせに見える大学生のグループが駅前の交番に連絡し、酔いのまだましなほうの男がしきりに迷惑を謝っている。後頭部から血を流しながらも気がついた男が、じぶんに構うなと暴れ出したので、酔いのましなほうの男がより酔っている男を抑えつけていたが、しばらくするうちに暴れる男に腹が立ったのか、抑え付けたまま罵声とともに殴りつけ、ただの喧嘩に。そこへ警官がやってきた。
やさしい友人もやってきたので、駅前を後にする。

午前様で帰宅。もきちがいつものとおり玄関まで迎えに出てきてくれる。外は人にも猫にも危険がいっぱいだったよ。

ところで、金曜日、

死刑制度に反対する理由を簡潔に説明するにはどうすれば良いか——、それをさっき風呂上がりにふと思いついたのだけれども、これは日記ゆきの内容だな。

とツイートしたのだったが、それのことを書いておこう。
哲学や法学の面からは書けない。論考などではなく、あくまでも自分が人に対しておこなう説明である。

時折、じぶんが過去にやった悪いことや酷いことを思い出して、なんとも言えない気持ちになることがあるでしょう。昨日のことでも、ずいぶん昔のことでも、きっといつまでたってもなんとも言えない。そもそも、もう謝ることが難しい。独り言ちるわけではない発言は、叶わないのです。
それで、なんとも言えない時間をしばらく過ごすわけだが、じぶんが過去にやった悪いことや酷いことに対する罰は、もはやそういう形でしか受けられないのです。
そういう意味では、わかりやすい刑罰は優しい。檻の中で過ごしたことが、悔いた証左となるのだから。刑期を終えれば、もうある側面での許しはもらえるのだから。
現状、この国で死刑に相当する悪事をはたらいた場合、その刑罰は死——それも、国家による他殺である。自殺ではない。自分の意思で死ぬことは許されていない。生きる権利とともに死ぬ権利も奪われ、ただ殺されるのを待つ他ないのが死刑だ。
そのことが罪をおかした者に、いかなる赦しを与えるだろうか——、想像するに、それは自分が犯した罪への後悔を、殺される恐怖と理不尽への怒りによって上塗りできるというかたちの赦し——、また別の話をする契機を与える赦し——。
他の刑罰と同じく、死刑はやはり優しい。優しすぎると思う。そんな優しさよりも、なんとも言えない時間を死ぬまで過ごさせるだけのことが、究極の刑罰として正当なのではないか。国家による他殺は、まるで——それに加担するすべての人間が、本来取り返しのつかないことをする可能性を備えている——、そのことへの恐怖心からの自衛に思えてならない。

いま、こうして、上にインデントで引いた思いつきをここに書こうとしたが、書いてみて、さて、この説明は簡潔だったろうか? あるいは、納得がゆくものだったろうか?
それは、正しい人の想像力、悪意への意識の低さ、そうした甘さからの考えでしかないのでは、——という反論が、自分の中にある。それに対して自分は、刑罰は、そういうもので良いと思うと答えます。私はただ、悪人を、国の総意でもって殺すことでしか裁けないということは、こんなにも生き死にを繰り返してきた人間という種類の生き物が行うこととして、あまりにも貧弱だと思うのです。

守るべきはあなたの美意識だ。それはあなたが生きてきた歳の数、静かな、もしくは激烈な振動を支える軸として存在し続けた結果、あなたの背筋を伸ばしてくれる唯一の縦の線になった。

簡単に損なわれるその縦の線をあなたは守らなくてはならない。横からの力に弱いその縦の線を、あなたは砕いてはならない。経済が、政治が、不条理がそれを容易に砕き、一度折れたその美意識が恢復を果たすのは難しい。しかし、骨折の古傷を痛めながらも、その痛みがその線を守る力になっているような、そんな、一度は折れ、しかしいまはまた縦の線である美意識だって、そこにはあるはずである。

美しいひとには縦の線がある。諦め、そして損なったひとはへしゃげてしまうだろう。縦を支えることが不可能になってしまったひとは、やがて横に膨張してしまうのだ。横に膨張すれば、それは醜い。そうなれば、あなたが信じてきたものにですらあなたは裏切られるだろう。だから守るべきは、あなたの美意識だ。そのためにはいかなる社会的不道徳も赦されるのである。

Thu Feb 9 2017

この日記は、考えるためのノートとして付けているので、時折、デザインを一新するとともに内容を消してしまうのは、現役だったノートがひと段落し、アーカイブする感覚なのだけれども、このところ、ひとつ前の日記を参照することが多いことに気が付いたため、それらを読み直し、まだ棚にしまう段階ではぜんぜんなかった——、と今朝、ここに該当のものを再録した。昨年8月から12月の日記がそれにあたるのだが、それらとそれ以降のものに流れる感覚に関しては、まだなにもまとめられる段階になく、もっと考え、もっとヒントを拾い続けなければならないようだ。

ところで、それら過去の日記に書かれているのは、日記なので当たり前だが、個人的な、小さな周縁のことばかりで、2005年から断続的に書き続けているのはほとんどそういったものだが、それを公開された場所に書くことの意味については、とっくに考えるのをやめてしまった。
一時期は、アクセス解析をしたりして、どの程度読まれているのだろうと気にかけたりもしていたが、ここ数年は、SNSがウェブ上のテキストメディアの主流になったことや、それに伴うRSSの凋落、上記のアーカイブ制を用いて時折消したりしていることなどから、そういったことはまったく気にかけていない。

そんななか、昨年の大晦日に書いた日記、——髪白スイさんというゲーム実況者の動画『[DARK SOULS3]初心者女子、髪白がダークソウル3を実況プレイ』について——、は、わりとあらたまって、読まれることを意識して書いている。
もちろんそのことに理由はあって、それというのは、周囲に感じる、あるいは自戒の意としての、意識や価値観の保守化、固定化への警鐘で、だからこそ、メモではなく、ある程度、一般化された文章にする必要があると考えたのだった。
もう少し具体的に言えば、歳を重ねるに連れて、興味や関心が固まっていることを自覚しつつ、それゆえに他人のそうした兆候にも敏感で、端的に、それで良いのか? もっと知らないことに目を向けるべきでは? という苛立ちが常々あって、近しいひとたちで言えば、映画、演劇、音楽、小説、漫画、などが話題になる主なものだが、——たとえばそうしたフィールドにいるひとたちに上記の動画の魅力を伝えるには、いったい、どう語れば良いのかを考えた結果があの文章だったということだ。

で、かりそめとはいえ、そうした目論見があったあの文章が、近しいひとたちにどう伝わったのかだが、それは反響がないためわからない。既述のとおり、読まれることへの意識が希薄になっている日記だから仕方のないことだし、リアクションを求めるのならば、いまはブログではなく、SNSなどに書くべきだ。だからやっぱり、あれは個人的なメモで、冒頭で触れたひとつの流れ(現状、その最後尾は「体験作家」という言葉だが)へと思考を馳せるためのノートの一部に過ぎない——
——のだけれども、先日、あの日記が髪白スイさんの動画のリスナーの方の目にふれ、思いがけずあの日の日記は、髪白スイさんやそのリスナーの方々に読まれ、よろこんでいただけたようなのだった。そのうえ、髪白スイさんに動画の中であの日記に触れていただき、これはまったく予想していなかったことで、嬉しいことなのだけれども、その代わりに、もし、他の日付の、純然たる日記ぶりの日記まで読んでいただいたとしたら、なんだか申し訳ない気持ちもあるのだった。
ここには主に、個人的なメモと、あと、小さな周縁や、飼い猫の記録くらいしか書かれていません……、そして今後も……。

——いま思いついたけど、「体験作家」っていうのは、いかにして編集されていない素材を提供するか、ということが重要な要素な気がするな。たとえばゲームエンジンの開発なんかは、それに近い。
あと、作家でありながら、作品がどういう着地をするかを予想してはならない、という無理難題も背負っているのが「体験作家」だ。作家性を作品の制御によって担保してはいけない。それと、個人的には、作家が啓蒙せざるを得ない構造も持って欲しくない……。
やっぱりなんか面白い気がするな、「体験作家」。姿はおぼろげだけど……。たぶん、いまはまだこの世にない作家の話。夢とも言えるかもしれない。

Wed Feb 8 2017

さて、8日にして、2月最初の日記である。

ここ数日、体調がいまひとつで、冴えない日々を送っていた。6日付けで、「体験作家」という言葉について考えた日記を書いたりもしたのだが、なにしろ冴えないので、下書きの段階で破棄してしまった。
この「体験作家」という言葉は、「印刷の時代、放送の時代、ネットの時代、そしてその先へ – 電通報」という記事で目にしたのだけれども、考えていたことというのは、この記事とはさほど関係がない。いわゆるセレンディピティで、「体験作家」という言葉になにか未知のものへのヒントを感じたのだったが、冴えない状態ではその感触を言葉に起こすのは難しかった。

冴えなかったので、仕事も捗らなかった。
おれが請け負う仕事にはいろいろと種類があるが、いまメインといえるのはウェブサイトのコーディング作業で、これのことをおれは一種のパズルだと思っている。
あるいは、ビデオゲームにおける「縛りプレイ」のようなものだとも思っていて、つまり、「使って良いとされるもの」をすべて使えば簡単にできるものを、あえて制限を設けてクリアするような作業だと考えている。
なので、冴えていればすぐにできるが、冴えていなければ、いつまでもできない。
そんなわけで、おとなしく休むことも仕事のうちだ、とか思いながら、惰眠をむさぼったりと、まったくもって冴えない時間を過ごしていた。

ボードゲームの誘いがあったり、かわいい友人から深夜に呑みに誘われても、仕事が捗っていなかったため出向けなかった。
冴えない。冴えない日々の日記は、書いていても冴えない気分になるだけだ。はやく冴えて、「体験作家」について考えないといけないのに……。

冴えない日記なので、6日付けのものと同様、また破棄しようかとも思ったが、とりあえず、備忘録くらいは……。

  • 福満しげゆき『中2の男子と第6感』4巻読む。
  • Frank Oceanを聴いてて、とつぜんアメリカの湾(bay)のことが気になる。
  • フランチェスカ・リア・ブロックを読み直すというのはどうか。
  • 根拠のない予見1:おれが生きている間に、「また別の、理想的な人生を短時間で体験するサービス」みたいなものができるのでは?
  • 根拠のない予見2:一周して、またブログが流行るんじゃないだろうか(ブログの最初の流行を2005年と仮定して、一回り)。
  • ストリーミングで『DENKI GROOVE THE MOVIE? ~石野卓球とピエール瀧~』を観る。