Kodama Satoshi


16年08月25日

8日間、日記が空いたが、その間は颱風の影響で気候の変化が目まぐるしかった。そんな具合だったため、体調はさほどすぐれなかったが、ひさしぶりに鍼を打ちに行ったりしつつ仕事の日々。

写真は、ある風の強い夜が明けた朝、カーテンを開けると窓にくっついていた葉。


寝違えたのか、右の肩から首にかけてが痛む。そのせいで、いまひとつ仕事に集中できないので、夜、『MAD MAX2』を観る。

以下、直近の一連のツイート。

宝石や宝飾品は、日本の街との相性がとにかく悪い感じがする……。戦後の日本が得られなかった大きなもののひとつに、ドレスアップのための美的教養があるのではないか。オシャレ、という言葉がすでにそうだが、もう、ドレッシーなものは揶揄することでしか消化できないようになって久しい……。

しばらく前にタイ人と交流が多かった時期があり、その頃から日本における無宗教の弊害を想ってきたが、宝飾品の歴史が文化人類学と密接に関係していることから、無宗教の弊害と類似したことを、また別の視座から考えることもできる気がしてきた。

(日本には)すぐれたインダストリアルデザインを生み出す感覚と同時に、そのインダストリアルデザインにわけのわからないペイントを施す感覚が共存している。

つまり、(戦後、日本人は)物理的破壊を抑制する代わりに、感覚への(異常に)強い破壊衝動を持ってしまい、美的価値や知性を好むと同時に、それを嘲笑い、台無しの地平を前進させ続けるという自傷行為によって、安寧を得ようとしてきたのではないか。

先天的にそうしたしがらみから解放されている/洗練されている(ように見える)人を尊敬し、後天的にその解放を得ようとする人を蔑む。本質的に美しいと思えていないのに、美しいと思いたい気持ちが過剰で、恋に恋する的な、だけどそれは恥ずかしい——そんな幼稚な民度に経済が順応してしまっているのがこの国だ。

以上は、いちおう、日本という国に焦点を絞った記述だが、案外と普遍的なことなのかもしれないとも思う。と同時に、「クール・ジャパン」的なものが取り沙汰された時、それらを好んだ外国人というのは、結局のところ海外における「ヤンキー」的感性の人たちでしかなかったのでは? という疑いも、この記述の中で浮上した。

——とはいえ、ひとまずここでは「この国」の話として進めたい。

上記のインデントされた記述たちは、ある程度のところまで書かれているので、補足説明はさほどは要らないのだけれども、ひとつ、読み返してみて感じたのは、ここ4年ほどは、——自傷と嘲りによってばかりで文化や知性を消化しようとする傾向がこの国にはある——という仮定の元、物事を考えることが多いということで、一連のツイートもまた、その枠組みに装飾という文化を当て嵌めたものだ。

ただ、それは当然、一側面でしかない。
たとえば『MAD MAX: FURY ROAD』、『シン・ゴジラ』、『ゴーストバスターズ』(もちろん、いま公開されているほう。未見だが)、「ゲーム実況」の流行、といった、あまり関係性が濃くは感じられない事柄から垣間見える、いまはまだおぼろげな可能性を、同時に感じてもいる。
それはもしかすると、「正の感情とカタルシス」といったものかもしれず、となると、「自傷と嘲り」への、(待望の)カウンターカルチャーなのかもしれない。そして、まだまだ掴みかねているのだが、そこにはアップデートされつつある「性への意識」が強く関連しているようにも思える。
——「異性への憧れ」は、「性欲」には限らない、ただ、理解ができないため、そこへと直結せざるを得なかった感覚——それを、あらためて歪曲させずに見つめることが可能な文化基盤は、すでに整備されつつあるはずではないか? なぜこの国の男女は、自らを装飾することがこんなにも不得手なのか、そしてなぜこの国は、宗教的抑圧が極めて少ないのに、死刑制度の廃止を、同性間の結婚を法的に認められないのか——。
その問題への重要な手がかりの気配を、確かに感じてはいるのだが……。

だから、やはりそのことは考えなければ——、書かなければならない。
この気持ち悪さを簡単に解決してしまう/できてしまうことは、じぶんが男性である以上、極めて強く自分を傷つける可能性がある。
……危険を孕んでいるからこその可能性が、どうもそこにはある気が——、考えなければ、と書いておきながら、その何かはきっと、Don't think Feelなものの気が……。だから、——なんとなくわかるでしょう? なんとなくわかりませんか? ねえ? なんとなく——感じ——が——。

16年08月17日


未明、テレビでリオ五輪テニス男子シングルスの三位決定戦を観る。

夜、なんとなく、映画『MAD MAX: FURY ROAD』と『MAD MAX』を観る。
あとは仕事をするか、飼い猫の毛玉を取っていた。他にもいろいろしたが、ほとんどは、アイスクリームを食べたり、アイス珈琲を飲んだり、額にデコデコクールSを貼ったりといった、冷たい関連のことである。昨日と同じだ。


16年08月14日

前回の日記で、ぐっすり寝たい、ということを繰り返し書いていたが、その後の眠りはぐっすりといった感じだった。望んでいたこととはいえ、そのおかげで目覚めると体が怠く、肩こりもひどく、ちっともやる気がでなかった。そんな土日だったとはいえ、終始仕事をしていた。眠ったぶん粘りはあったが、やはりいまひとつ冴えなかった。

終始仕事をしていたので(といっても、おれの終始仕事をしていた、とか、よく働いたとか、忙しい、とかは、基本的に労働基準法の範囲内である)、ここに書くべきことはあまりない。六人姉妹の小説のためのノートをまとめ、ハーラン・エリスン『世界の縁にたつ都市をさまよう者』を読み(この短篇にも6ビットのパンチカードが登場したが、もう気にしないことにした)、「筒井康隆 + 佐々木敦「なぜ「最後の長篇」なのか?」」を読むために買った「新潮」九月号だが、それは固有名詞の収穫こそ多かったものの、期待より短かったため、他のものも読まないともったいないな、と、舞城王太郎『Would You Please Just Stop Making Sense?」、高尾長良「みずち」の二篇を読む。あと、風呂場で飼い猫を洗う。他にもいろいろしたが、ほとんどは、アイスクリームを食べたり、アイス珈琲を飲んだり、額にデコデコクールSを貼ったりといった、冷たい関連のことである。夏は毎年あっという間だ。今年の夏は、いやに長いなと思ったことはない気がするが、忘れているだけのような気もする。不毛なことを述べた。もっと不毛なことを述べたい。


ずいぶんと以前から左肩が少し痛かったのだけれども、この日の未明に右肩も突然痛くなり、小一時間ほどしか眠れなかったが、もともと夏はあまり深く眠れない。ずっと意識がくっきりとしている感覚で、その反動は秋口からじょじょに表れ、冬に至れば夏の倍ほど眠ってしまうのが毎年のことだ。

小一時間ほど眠り、バスと電車を乗り継ぎ新宿に。3月あたりから、六人姉妹の小説を書こうと準備しているのだけれども、おれは三人兄妹の長男で、六人姉妹というものにとうぜん実感が湧かないのだけれども、そういえば長い付き合いの友人が六人兄弟だったことを思い出し、話を聞かせてもらうことにしたのだった。たぶん、世間話などもしつつ、五時間ほど話を聞かせてもらったと思う。とても有意義な時間だった(いつの間にか右肩の痛みもなくなっていた)。

帰宅し、寝不足だったのでなるべく長い時間眠りたいと思いながら眠ったが、やはり一時間程度で目が覚めてしまったため、昨日に引き続き、ハーラン・エリスン『おれには口がない、それでもおれは叫ぶ』に記載されているパンチカードについて調べていた。できれば、今日聞いた話をノートにまとめたかったのだが、目が覚めたとはいえ寝不足なことには変わり無いので、それは明日の作業に回す。
件のパンチカードについては、すこし調べが進み、パンチカードの1文字目をデコードするも、どう読めば良いのかわからないリガチャだったため途方に暮れ、結局謎を深めただけで疲れてしまった。そもそも、なぜおれはこんなことを調べているのか、と思い始める感じに疲れたので調査を切り上げ、資源ゴミを捨てて良い日である翌日のためにダンボールを紐で縛ったりする。

環七沿いの、ワンフロアー一室の四階建てのビル、その四階におれは住んでいるが、一階は小料理屋、二階は中年夫婦の事務所兼自宅、そして三階は去年まで非常に珍しい苗字の夫婦が暮らしていたが、いまは空室である。どうやら、その三階にあたらしい入居者があるようで、特別大家からなにか言われたわけではないが、このところはなんとなくビル全体が大掃除ムードである。ワンフロアー一室であることから、暗黙にそれぞれの階の踊り場などは、その階の住人が自由に使っているのだが、そうしたものが片付けられ(おれの場合、大量のダンボールをそこに置いていたのだが、いつのまにか捨てられていた。二階の住人は、工務店のようで、それに関するあれこれがぎっしりと置かれていたが、おそらく物が物なので大家からの声かけなどがあったのだろう、とにかく片付けられていた)、深夜に外国人が登場するテレフォンショッピング番組などで売られていそうな高圧の水で清掃する機械によって階段や踊り場は綺麗になっていた。

そんなふうなことがあったので、これを機にダンボールを溜め込むのはやめ、こまめに捨てることにしたのだが——、いま、自分の日記なのだから気にすることでもないのだけれども、なんてどうでも良いことを長々と書いてしまったのか……、と少し呆れている。以上、できることならぐっすりと眠りたいのだが、それが難しいために書かれた、おれがダンボールを小まめに捨てることにした理由。


16年08月10日

9日。未明からリオ五輪の体操団体を観ていた。日本代表の五人の個性や、不調だった予選からの流れも相まり、ドラマティックでおもしろかった。
その後、可燃ゴミを出し、掃除機をかけ、洗濯。日常というのは、なんてやることが多いのか、とうんざりしつつ開店の午前10時を待ち、朝食兼昼食を買いに最寄りのスーパーへ。出来立てのドライカレーを手に取るも、値札が「うな重 980円」になっていた。何事も簡単にはいかない。日常は忙しい。「これはうな重ではない」という旨を店員に伝え、やっと朝食兼昼食を入手。食後、少し仕事をして寝る。
夜、最寄りの映画館まで歩き、レイトショーで『シン・ゴジラ』を観る。

本日、10日。ハーラン・エリスン『おれには口がない、それでもおれは叫ぶ』を読む。シンギュラリティを扱った作品はたくさんあるが、初出が1967年のこれは、おそらくそれらの中でも最初期の創作だろう。「憎しみ」という、ひどく人間的なものが主題で、結局はそこに立ち返る、という予見は真にSF的だと感じる。

ところで、作品内で、パンチカードの表記があるのだけれども、調べたところ、Wikipediaの「I Have No Mouth, and I Must Scream」の項に、そのパンチカードは「ITA2」という5bit文字コードで書かれている、とあるのだが、俺の読んだ、つい最近ハヤカワ文庫から出た『死の鳥』収録の『おれには口がない、それでもおれは叫ぶ』のパンチカードは、どう見ても6bitなのだ。
「ITA2」は「Baudot code」と呼ばれるもののひとつらしく、ある程度情報はあるのだが、6bitの文字コードについては、「そういうものもあった」というような記述しか見当たらず、たいてい、話は7bitのASCIIの詳細へと続いてしまう。「そういうものあった」というのは、Wikipediaの「テレタイプ端末」の項にある、「テレタイプセッター」というもの。

アルファベットの全ての大文字と小文字、数字、新聞で使われる記号、「左寄せ」や「中央にそろえる」といった植字指示などを扱える。本来このコードは紙テープを鑽孔し、その紙テープをライノタイプ付属の紙テープリーダーに読み込ませ、新聞や雑誌の印刷にそのまま使用することを意図したものだった。 テレタイプ端末

とあるので、時代背景的にも、その用途的にも有力だしもう少し調べたいのだが、もう11日の午前4:30になってしまったし、どうせ、「我思う、ゆえに我あり」と、ラテン語か英語かで書かれているだけだと思うので、切り上げることに……。

妙なことに引っかかってしまってずいぶんと時間を食った……。眠らなければ。そして、起きなければ……


16年08月08日

前回、5日付の日記があるが、なにも書いていないので、実質、8月最初の日記である。
Twitterを見返し、それなりにいろいろとあったことを思い出す。

2日。翻訳家の柳瀬尚紀の訃報。大学の時、ある演劇の授業で、にも関わらず小説のことをやんやと話していたら、担当の教員より「とりあえず、柳瀬尚紀訳の『フィネガンズ・ウェイク』でも読めばどうか」とアドバイスを受け、それを手にしたのが出会いだった。世の中にはこんなものまであるのか、と、初めて筒井康隆を読んだ時と同様のショックを受けたのを憶えている(ちなみに、筒井康隆とは『突然変異幻語対談』という』共著がある)。
あと、2日は、外国人女性に「日本人は音を立てずにおならをする技術が高いが、それをこちらにも求めてくるのは止してほしい」と怒られる夢を見た。「そんなに難しいことではないのでは?」と夢の中で思い、「あ、そういうところが良くないんだ…」と夢の中で反省したとツイートしている。

3日。夜、DOMMUNEで石野卓球のDJを見、2007年の夏に京都WORLDで見た石野卓球を思い出す。

4日。Twitterの140字制限がもたらす、マルチバイト文字による言語の国とシングルバイト文字による言語の国との、リテラシーの差異のようなものを考えていた。さらにそこから飛躍して、

そうか。いまの日本語の読みの主流として、短いものほどそこに書かれたことだけを、長くなればなるほど書かれていないことを、というのがあるのかも。だとすると… https://twitter.com/kodamasatoshi/status/761274298103308288

とツイート。言語の仕組は当然のこと、思考の仕組に強く影響を与えるが、日本人的な生真面目さ、短絡さ、ブラックジョークを苦手とする感性、そういったところは言語の構造の影響下か……、というような、ずいぶん昔に新書にでもなってそうなテーマのことを少し考えて、もういいや、と放り投げて寝る。

5日。お世話になっている会社の餃子パーティに招かれる。行くと、三人いた男性が、三人とも口腔内のひどい痛みに悩まされていて、なんてバッドコンディションだ、と思う。様々の理由で口の中が痛い——という共通のテーマに参加できないので、ひとり口の中が痛く無い幸せを噛み締める。

6日。リオ五輪が始まっていた。深夜、水球の試合を見る。テレビで水球の試合をダイジェスト以外で見るのは初めてのことだ。それもそのはずで、水球における日本の五輪出場は32年(俺の年齢と同じ)ぶりとのこと。戦略がはまっていて、対戦相手のギリシャに勝ちそうに思えたが、最後にひっくり返されてしまった。後半、水球は攻撃時間が30秒と決められているのだけれども、それの計測を行う30秒計に不具合があり、妙な待機時間が生じてしまったことが悔やまれる。動きが止まってしまうと、ヨーロッパ諸国に勝つのは難しそうだ。

7日。昼寝をし、夕刻に起きたが、そのきっかけが家屋への蝉の侵入。あまりにもその鳴き声がダイレクトに届くので驚き起きると、キッチンマットの上に蝉がいた。寝起きで、その蝉をどうするかという問題と同時に、すぐ傍で飼い猫が寝ていたので、なぜ飼い猫はこの蝉を攻撃しなかったのか?というミステリーとも対面することに。
蝉は、キッチンマットをゆっくりと持ち上げると、くっついたまま離れなかったため、窓からそれを垂らし揺することで空に放った。それをしていた俺を見つめる飼い猫のブルーの瞳の奥にミステリーの答えを探るが、見えるのはただただ無限に広がる孔雀青のイノセントだけである。

本日8日。連日暑い。なんか、右の奥歯が痛い気がする……。


さて、そろそろ日記でも付けよう、と思っていたのだが、エディタを開いた途端、強い眠気が……。

16年08月05日


そういえば、今年の夏はエアコンをあまり使っておらず、今月の頭に2,3日使っただけだったので、仕事関係の友人と呑んでいた時にそのことを言うと、「いや、暑い」「児玉さんというか、もきち(飼い猫)が心配です」と言われ、そうか、実は暑かったのか、なぜ気づかなかったのだろう、と思っていたのだけれども、梅雨が明け、ここ数日はさすがに暑いと思いエアコンを点けていた。
で、そんな今日は具合が悪くずっと寝ていた。熱中症かなあ、室内でも注意しなければいけないと聞くものなあ、と思ったが、エアコンを点けているし、冷えピタ的なもの(デコデコクールS)を額に貼っているし、一年を通して、どちらかと言えば摂りすぎなほど水を飲んでいるので、おそらくそうではないだろう、と思いつつも、もしや塩分が足りていないのでは、とコンビニで水分補給に適した飲料を購入し飲んでいるうちに調子は改善した。

そんなことより、8月になってしまった。8月って、むかしからなにをすれば良いのかよくわからない。というか、(特別)なにかしないと、と思ってしまうのだが、それは端に世の夏休み消費ムードに流されているだけで、自発的な気分ではない。でも、8月って大抵なにか起こるんだよ。世の中のそわそわが形を変えて伝わってきているのかしら。

16年07月31日


このところ、自分としてはわりとたくさんツイートしていて、それらの内容を以下にまとめたいと思う。
日記は日記、TwitterはTwitterと分けなければ、思い付きや思考の萌芽にも大きさがあり、その性質を台無しにしてしまう——ということは、もうTwitterを8年以上もやっているからわかっていたのだけれども、それでもやはり——、つまり、——つい——、だ。

このところ、傷というか、広義のダメージ、そしてそれの回復(忘却)についてピンとくるというか、惹かれるのだけれども、傷を回復させるためには、なるべく早く且つ的確な手当てが必要で、回復はその後の話。傷跡は、痛んだとしても話の種だ。

自分の中に「小さな死」という概念があって、例えば傷を負い立ち止まることは小さな死のひとつ。だから、正確には「小さく死ぬこと」か。その「小さく死ぬこと」を、ほんとうに死なないための知性だと考えている。言っても「死」だから怖いし、とはいえ「小さい」よ、と。

傷の存在を忘れるんじゃなくて、傷跡にすること。ようやく少し前によく見かけた「再生」という言葉の意味がわかってきた。同時にその困難さも。

「再生」の前に、「小さく死ぬことを受け入れる」という困難があって、そのことの難しさをスルーしての「再生」ばかりに思えていたから、意味がよくわからなかったのかもしれない。もしくは、それはみんなにとってはさほどの困難ではなかったのかもしれない…。そんなはずないと思うけど。

インデントを挿入した上の四つのパラグラフが一連のツイートなのだけれども、どう考えてもタイムラインという仕組みの中で書くことではなかった。
で、大したことは書いていないのだが、大事というか、一応ひっかかっているのは、上記で云うところの「再生」の前段階、——再生の準備——ある種の通過儀礼、具体的に言えば、——負った傷に目を凝らし、理解し、受け入れる——というような行為のことである。

……断っておくと、例えばトラウマだとかPTSDだとかっていう言葉を使えば、もっと簡潔に書けることは、いちおう理解しているつもりなのだ。ただ、この日記は、なるべくひとつひとつの言葉は平易なものにし(つまり、個々の要素の情報量は減らし)、それゆえに文章が長文化する際に発生する混乱や繰り返し、抽象化、脱線などの迂回から、自分のことを逆照射することが目的のひとつだから、こんなことになっている。

閑話休題。で、傷に目を凝らす、なんていう行為は、乱暴で、——暴く——、といった様相もある。より理解しようと徹底的に暴くということは、たとえば「粋」という言葉の逆の性質を持つし、その視線が自分に向いている以上、ある種の自傷行為でもある。毒を食らわば皿まで、という気配もある。でも、そうでもしないと「再生」のステップへと進めない——、その不器用さというか、頭の悪さというか、愚直な行為のことを、いま——すべてにおいて超高速の時代に——あらためて取り上げなければ、(そうした行為/思考が)自然淘汰されてゆくのを受け入れることのように感じられたのだ。——いまのこの超情報化社会は、集合的無意識が作った、忘れるためのインフラなのではないかと。
で、ならばそれは進化と言えるが、いくらそれが進化(≒種の保存のための知恵)であっても、自分の趣味じゃないな、と。

書けば書くほど何を言っているのかよくわからなくなってきたというか、裾野が広がりすぎて収拾がつかなくなってきたが、それで構わないというのは先ほど書いた。なにしろ、これは日記で、今日がすべての終わりではなく、明日があるから。今日で終わりだったら、もうちょっとちゃんとまとめないといけないけど、当然そういうつもりもないし……。

ところで、こんなツイートもしたのだった。

『機械仕掛けの愛』4巻読む。これ、短篇集だけど、3巻を読んだ時に終わったと思ったのだった。もう無いんじゃないかと。でも、思えばまだ『ゴーダ哲学堂』や『ロボット小雪』の守備範囲だったのかもしれない。そしてまだ連載は続いているとのこと。4巻は過渡期に思えたが、とはいえこの先どこに…。

業田良家『機械仕掛けの愛』4巻のことである。4巻は3巻にくらべて軽い印象になったが、3巻と4巻の狭間には一体なにがあるのか……。安易な推測だが、現実の日進月歩の技術進化に呼応して、視線をすこし変えたように思うのだが、それと同時に、また別の、この先のビジョンへの準備にも思えたのだ。なんかわかんないけど、4巻に描かれる希望に、微かな畏れを……。

……ああ(いつものことだけど)ずいぶんと散らかった、よくわからない日記になってしまった。やっぱりツイートで済まそうとするのは、だいぶん楽してるのだな……。体力の衰えだ。いけない。まだ全然足りて無いのに。油断してると、足りて無いことすらわからなくなってしまう。

16年07月29日


深夜、相当回数読み返している『先生の白い嘘』(著:鳥飼茜)をふたたび読んでいる時、ふと「そして一瞬だけ打ちひしがれて、一瞬死んで生き返れ。自分の生命の存続を省みるとは、そういうことだ」と、誰かが言ったことを思い出し、宇多田ヒカルの珠玉『For You』(2000年の夏はこの曲と、THE YELLOW MONKEY『パール』ばかり聴いていた。『For You』は間違いなく名曲なのだけれども、いまだにドラムにだけは納得がいかない。なぜあんなにも耳に突き刺さるビートなのか、それは歌が霞むほどで、16年間、おれはこの曲のあたらしいミックスダウンを願い続けているが、きっと叶うことはないだろう。彼女にとって、それはもう過去のことなのだ。ただ、あの珠玉がセールス的にも不遇の音楽となってしまったことはやるせない。その半年後、『Can You Keep A Secret?』というまた別の珠玉の誕生と達成で、『For You』は静止した。そして続く『FINAL DISTANCE』『traveling』によって20世紀が終わり21世紀が訪れたことが刻まれた。それでもいまもなお——16年経っても——『For You』への想いは時折ふと……)をひさしぶりに聴き、やはり「そして一瞬だけ打ちひしがれて、一瞬死んで生き返れ。自分の生命の存続を省みるとは、そういうことだ」という言葉は、ひとつの真実に感じられたのだ(梅雨が明け、いよいよ夏だからだろうか……)。

冒頭から『For You』について書いたが、ここ数日聴いているのは坂本慎太郎の『できれば愛を』だ。2016年だ(もう、2000年でも2001年でもないのだ……)。
いま、『できれば愛を』について検索していると、インタビューに興味深いというか、セレンディピティを感じる発言があった。

あとはほら、ケガするじゃないですか。ケガしてずっと痛いんだけど、ある時ふと気づいたら、「あ、痛くなくなってる」みたいな。その気づいた瞬間、「あっ」と思った時間を引き延ばしたような音楽があれば。

坂本慎太郎がたどり着いた“答え”「僕が作りたいような音楽を自分で作るのは不可能」|Real Sound|リアルサウンド

点を並べているような日記だが、並べるのにはそれなりに(いまはまだ知らない)理由があるのだろう。見えない線を感じているのだろう。
最後にもうひとつ点を。2013年の4月に書いた「あなたの美意識」という文章だ。

守るべきはあなたの美意識だ。それはあなたが生きてきた歳の数、静かな、もしくは激烈な振動を支える軸として存在し続けた結果、あなたの背筋を伸ばしてくれる唯一の縦の線になった。

簡単に損なわれるその縦の線をあなたは守らなくてはならない。横からの力に弱いその縦の線を、あなたは砕いてはならない。経済が、政治が、不条理がそれを容易に砕き、一度折れたその美意識が恢復を果たすのは難しい。しかし、骨折の古傷を痛めながらも、その痛みがその線を守る力になっているような、そんな、一度は折れ、しかしいまはまた縦の線である美意識だって、そこにはあるはずである。

美しいひとには縦の線がある。諦め、そして損なったひとはへしゃげてしまうだろう。縦を支えることが不可能になってしまったひとは、やがて横に膨張してしまうのだ。横に膨張すれば、それは醜い。そうなれば、あなたが信じてきたものにですらあなたは裏切られるだろう。だから守るべきは、あなたの美意識だ。そのためにはいかなる社会的不道徳も赦されるのである。

あなたの美意識


いつものとおり、特に書き記すことは思い浮かばないが、あえて言えば、今日、ツイートしたことが気にかかっている。

もはや、凶行において、なにが原動力になったのか、よりも、なにが抑止力になっていたのか(なり得ていたのか)、を想うべきなのかもしれない…。そういうふうにしても、おそらく救いはなにもないだろうが…。

https://twitter.com/kodamasatoshi/status/757817204704317440
これは、26日未明に相模原市で起こった、一人による大量殺人事件を受けて書いたことだが、このところは、自分の生命の存続を省みない人間による事件(主にテロ)が、世界各国で頻発している印象だ。
それで、「一体なにが原動力になったのか」と考えてみるも、自分に「自分の生命の存続を省みず」に行いたいことなど無いため、どうしてもふわふわとした推測しかできない。だからこそ、犯行に及んだ人間たちは、なぜいままで「自分の生命の存続を省みずに凶行を行うこと」をしなかったのか、と考えてみるべきなのではないか、と思ったのである。
「自分の生命の存続を省みる」ことは、当たり前のことだった。「動機(原動力)」ばかりが注目されてきた。そのことを逆の視座から考える、つまり、「自分の生命の存続を省みることは当然のこと」という大前提を疑う——、それはとても怖ろしく、無意識に避けることかもしれない。でも、もうそんな時代でもない——怖ろしいことに対峙せざるを得ない時代——、っていうか、実際そういうムードじゃない? わかんないけど。
——ともかく、なぜわれわれは「自分の生命の存続を省みる」のか。それを考え、次にそれが無い状態を想う。そこに現れるものが、新しい前提だ。そのうえで、犯行に及んだ人間たちの持っていた動機について考えようじゃないか、と——。

——上記のようなことをすこし考えて、放っていたのだけれども、日記を書こうという段になり、気にかかってなくもなかったので取り上げてみたのだったが、ツイートにも書いたとおり、やはりそこにはなんの救いもなさそうだ。救いがないから考えないのか? と自問してみるも、救いがないからっていうか、面倒だから、——っていうか、それ考えても底が知れてるっていうか、端的におもしろくないね、で、終わりにしてしまえ。

想像力想像力と言うけれども、当然のこと想像力もまた有限だ。ケチる必要はないが、使うあてがあるのならば、そちらを優先したほうが良いに決まっている。自分の生命の存続を省みれば、そういうことになるはずだ。

なんとなくここまで書いたが、やはり本質的に興味のある話ではないようで、いまはなにかべつのことを書きたくなっている。
ただ、そのなにかべつのことが、幻のように不鮮明だから、もしくはもう失われた過去のことだから、困っている。困ってはいないか。脱力している。オフ。いまは、オフ。
誤解しないで欲しいが、もちろん、日常にオンの時はある。——どうやら未知の美しいなにかが深淵に——。だから、やっぱりフィクションに潜る。そこに想像力を使う。オン。力を駆使する。それだけは変わらない。現実のAugmenteは、まだ目に見えない場所にしかあり得ない。そして一瞬だけ打ちひしがれて、一瞬死んで生き返れ。自分の生命の存続を省みるとは、そういうことだ。

「そして一瞬だけ打ちひしがれて、一瞬死んで生き返れ。自分の生命の存続を省みるとは、そういうことだ」と、誰かが言った。


16年07月21日

だいたいひとつの仕事が終わると、その仕事のものとわかる名を付けたフォルダを、「Works」というフォルダの中に入れる。それまでは、デスクトップに置いてある。
本に関してもそういう扱いをしていて、いまはこれ、というものは机の、目線の位置に置いてあり、その後、本棚へと移動させている。
高専のとき、いろいろな高価な教科書(材料学の教科書が一番高価だったと思う。たしか、6,000円くらいしたはず。とても良い本だが、数がないので、このクラスのためにほとんど買い占めた、というようなことを材料学の教師が話していた気がするが、なんだかその教師の偉そうな感じが気にくわなくて、安い子供用のガムに付いている、爪で擦り付けるタイプのシールを表紙に貼り付けて、あとは授業中の枕にしていた)を買わされたが、手元に唯一残っているのは、木下是雄『理科系の作文技術』で、おれが持っているそれは、奥付によると1998年の40版のもの(先日、近所の小さな書店に平積みされていたのを見かけたので、気になって調べてみると、今年、81版で100万部を突破したとのこと)で、たぶん高専で買わされた書籍で最も安いもの(中公新書)である。18年も前に手にした本だが、これはいまも、机の目線の位置に置かれている。つまりいまもなお、事あるごとに開き、目を通す本なのだが、じつは内容はほとんど頭に入っていない。だからずっとそこにある。わかってはいたが、どうやらおれは理科系ではないようだ。中学校の時、テストで唯一100点満点を取った教科は「理科」だが、そんなことは関係ない(ちなみに、メインの5教科で一番成績が悪かったのは、国語と数学だ)。
では、いったいなんのために開き、目を通すのかというと、端的に癒しだ。現代に生きていると、ひどい文章(ソースコードも含む)を日々たくさん読まねばならない。とうぜん辛い。そういう時に読む(おれは音痴でリズム感もないから推測だが、絶対音感があってリズム感もあるひとは、日常の騒音としてのひどい音楽に頭を悩まされ、心の安寧のためになにか聴くべきものを用意しているのではないか? ——と思ったが、そういえば元妻は絶対音感があったけど、音楽はほとんど聞いていなかった。思い過ごしかもしれない、というか、音楽とはそういうものではないのだろう……)。だからずっとそこにある。護身用である。

そんな『理科系の作文技術』の著者である木下是雄の『レポートの組み立て方』という文庫を昨日書店で見つけたので、レポートを書く予定は全くないが、これもまた護身用に購入。その勢いで今村夏子『こちらあみ子』と、山口遼『ジュエリーの世界史』も購入する。
『ジュエリーの世界史』を購入したのは、一昨年の夏に書いていた小説の中で「ミステリー・セッティング」という技法を発明したヴァンクリーフ&アーペルの職人を登場させたのだが、当時いくらネットを調べてもその職人は特定できず、いまさらだがこの本にならなにかヒントがあるのでは? と思ったからだが、ジュエリーに関する本を蒐集するのが趣味で、その数2500冊とあるこの著者をもってしても個人を特定することは難しいようだった。目的は達成されず、また、まだ三分の一ほどしか読んでいないが、この本はとても面白い。今村夏子『こちらあみ子』も表題作を読み終えたが、おもしろかった。
——というか、なんだよこの本、クソつまんねえな、と腹を立てたことなどこれまで無かったような気がする(たぶん、忘れているだけだけど)。

ところで今日21日は、前回(おととい)の日記に、

夏なので暑い。

と書いたところだが、雨の一日で肌寒いくらいだった。白くまも食べなかった。
麦茶は飲んだ。テレビは見なかった。頭が痛かった。夢は覚えていない。猫の餌がなくなりそう。昼になに食べたかな……。ペットボトルゴミ捨てないと。


夏なので暑い。白くまうまい。麦茶うまい。
扇子を常用していてふと思うのは、ヒンジの部分、要(かなめ)というらしいが、あの部位の丈夫さだ。そもそも設計がどうなのかと思うくらい、パッと見ても負担が大きそうなあの部位に限らず、扇子は丈夫にできている。一昨年の夏、落っことして無くしてしまった扇子は、京都の古道具屋で300円くらいで買って、10年近く使っていたと思う。
とはいえ、扇子がすぐ壊れて困っている、もっと丈夫なものはないのか? というひともいるだろう。Twitterのタイムラインでは今日もiPhoneが壊れている。

最近、ADHD(注意欠陥・多動性障害)という言葉を時折目にするので、なんだろう、と調べると、なんというか、——なるほど——と思ったのだ。その症状とされるものを見ていると、大抵がじぶんがこれまでに苛立ちを感じたり、不可解に思ったりしていたことで、あらためて己の不寛容と無理解を省みる。恥ずかしながら、ADHDの症状とされるようなことは、直そうと思えば直るものだと、じぶんがそれができるばかりに、わりと最近まで思い込んでいたところがある。ああ、そういうことではないのだな、と理解してからは、自分勝手な話だが、人と接することが楽になった。
で、ADHDのことを調べていると、アスペルガー症候群とどう違うのか? という記事が出てきたためそれにも目を通していると、ADHDは他人事だったが、アスペルガー症候群の症状とされるものにはかなり該当することがわかった。
——さっきから、「症状」という言葉に疑いをかけた書き方しかしてこなかったが、それは、どれも「ふつう」の範疇と「異常」の範疇の線引きが難しい事柄ばかりだからだ。どれも、取り出し、独立させて観察できるような事柄ではない。
ただ、小学校のとき、常に忘れ物をし机の周囲を散らかしていたため、皆から若干隔離され、席替えの際も席を固定されていたK君のことや、高専のとき、同じ部活だった、常に喋り続けるため話を聞いているこっちの頭がぼんやりとしてきて、だんだんとその状態が面白いと思わせられた、心の中で「テクノ」と呼んでいたM君のことを思い出すと、(彼らのことはなぜか好きだったが)そういった事柄を「症状」として捉えていれば、彼らを理解する助けになっただろうと思う部分もある。
むずかしいのは、理解の助けにはなったかもしれないが、簡易な理解というパラドックスを道具にすることで、彼らを理解できないがゆえに面白いと思うことがなくなっていた可能性も感じるということ。だから、どちらが良かったのかはわからない。ただ、「簡易な理解」という核兵器のような乱暴な代物は、人が増え、情報が増え、情報の流通量がこのうえなく増えた今では、みんながみんな罹患しているある病気への唯一の特効薬だとも感じている。そしてその病の症状は悪化の一途であり、特効薬は劇薬に。シンプルゆえに止められないことであり、戦争はこのようにして起きるのかとすら思わせる。

まあ、いまさらといえばいまさらな話だ。
突飛なことを言うが、とっくに「ふつう」はイニシャライズされていた。その地平にあったのは、テクノロジーを利用するか、テクノロジーの利用によって利用されるかの二択だった。その地平ももはや彼方で、簡潔な二択は資本主義の霞に消えてしまった。もう綺麗な形で取り出すことはできない。時間の流れと完全に同意の不可逆性だ。だからやっぱり、いまとこの先のことを面白がるほかない。過去を、ちょっとした蜜だけで引き込める甘美な牢獄にすることは、いまいちばん楽で儲かるビジネスだ。で、ビジネスマンたちはいつだって利口だから、それが長続きしないことは誰よりもわかっている。そのうえ冷酷だから、その後牢屋は放置し、その中に閉じ込めたひとびとは利潤を得られる母数から引き算するだけのことである。
夏なので暑い。夏なので暑いが、去年の夏がこんな感じだったかは思い出せない。台風や豪雨は、いつもこんなに記録的だっただろうか。麦茶うまい。麦茶うまいけど、実家で常飲していたのは烏龍茶だった。水筒の中身も烏龍茶だった。夏の部活終わり、午前からADHD気味に水筒の中身を減らしていた友人たちもあまりねだってこないマイノリティなお茶だった。おれはじぶんの水筒の中身があるのに、時々友人に麦茶をねだった。麦茶うまいから……。大きい水筒持ってたし……。おれは重いのがいやだったから、そんなに大きな水筒は持っていなかった。
あの頃の麦茶は、いかに冷え、刺激的だったが価値だった。午前中など、たいていはほとんど氷の塊だった。いまは常温でぜんぜん構わない。
——ひさしぶりに日記が脱線してきた、というか、そもそも日記的なことはなにも書かれていない。やはりこのくらいの分量を書かないとダメか……。あ、地震だ。最近、多いな……。


16年07月18日

撮影セットが建物ごと解体されるのを利用して、典型的なメタフィクションのカットを空撮しろ、と監督から指示されたため、ハーネスのようなものを装着し、ヘリコプターに持ち上げられた。建物の解体が始まり、体が上空20メートルほどに達すると、まるでもっと上空のような風と低い気温にさらされ沈鬱になってしまったので、そのまま沖縄の離島まで運んでもらい、その島にひとつしかない喫茶店で女性マスターの結婚の馴れ初めを聞きながらアイスコーヒーを飲んでいると目が醒めた。

それが19日の未明であるいまだが、もう眠ることは難しそうなので、仕方なく日記を書くことに。
前回の日記を書いた翌日だから、14日、駅前の800円の店で髪を切る。ほかに殊更のことはない。

上まで書いて、しばらく他に書くことはないか考えたが、やはりなかった。


16年07月13日

この頃にしてはずいぶんと珍しく、たった一日のことが書かれる日記だ。
確か、午前11時過ぎに起床したと思う。
初めて会う美女に、なんらかの経緯で、スマホで地図を見れば良いのではないか、と助言したところ、彼女はガラケーを使っているからそれができないという。ああ、そうなのか、と思い、なぜガラケーを使っているのか尋ねようとしたところに、ドアチャイムが鳴って起きた。出ると、クロネコヤマトの人で、飼い猫のトイレの砂を配達してくれた。それが重い物だと知っているので、労をねぎらい、受け取りの判子を押す。
そういえば、彼女になぜガラケーを使っていたのだったかまだ訊いていなかった、と思い出し、慌てて二度寝したが、クソ不味い超大盛りの牛丼をほとんど残す、という酷い夢しか見られなかった。
身支度をし、電車に乗る。テキストでのやりとりでは埒が明かない仕事があったので、直接先方を訪ねることにしていたのだった。iPhoneにThe Avalanches『Wildflower』をダウンロードしておいたが、結局聴かずに目的地へ。しばらく作業し、午後九時前に帰宅。
郵便受けに『先生の白い嘘』(著:鳥飼茜)4巻。昨日、同時に注文した5巻が先に着てしまっていたので、ようやっと読める、と1巻から再読し、未読の4巻5巻へ。この漫画は本当にすごい。それなりにいろいろなものを見たり読んだり聴いたりしてきたが、この、究極のテーマといっても言い物事に正面から挑み、悪趣味になっていないものは、これの他無いと思う。
つい先日、『愛しのアイリーン』『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』(共に著:新井英樹)を再読したところなのもあって、漫画の力に圧倒されている。……言うべきことではないが、究極のテーマの別の切り口、「宗教」に正面から向かった『よいこの黙示録』(著:青山景)を最後まで読みたかった。
深夜に少し調べごと。放置している髪がずいぶん長くて鬱陶しい。


16年07月12日

粛々と働く日々である。
取り立てて愉快なことがあるわけではないが、不愉快なこともない日々だ。仕事に関しては、受注し、納品し、収入を得る、というシンプルさを実現できているから、精神衛生面から見て理想的である。さほど不愉快が無いのは、生活の主軸になる労働が、そうした様相にあるためだろうか。
5月6月は人と会うのがとかく億劫だったが、最近はすこしそれも改善されてきた。程よい日々だ。

希望にあふれているわけでは当然ないが、絶望というほどのものもない。平穏だ。現状維持を目標としたいかというと、それほどの満足もまた当然無い。では、期待や欲求はどうかというと、それはもちろん持ち合わせている。
個人的に、とても不可解な状態ではある。妙なバランスというか……。ただ、以前よりも物事をとらえるサイズ感が、素直な感じはある。言葉で書けば、そこには矛盾が潜んでいそうな感じもするが、体感としてはそうでもない。
つまり、なにかわからないものがある。なんだろう、と。それは遊び道具だ。それに飽きるまでは、きっとひとまずの安心。


6月末日まで——今年の上半期——の日記を1ページに書き連ねていたのだが、それがずいぶんと長くなったため、下半期のページを新たに作ることに。

正直、ずいぶん前からここに書き付けることなどなくなっていたのだが、それでもなんとなくこうして書いている。
ページを、アナクロ——というかOld skoolなつもりだが——なものにしているのは、昨今のウェブサイトの構造が複雑化しているのがおもしろいと思わないからだが、とはいえなにか主張があるわけでもない。ある部分では、複雑化、高機能化していくものを面白くも思っているつもりだ。
ただ、それらはそうする(そうなる)ことが必然(というか、他に選択肢がないだけにも思えるが)なだけで、つまり衣服のファッションと同じ新陳代謝で成り立っているのだと、そんな冷めた目線は常にある。
衣服のことはおもしろいと思っている。じぶんが、10年以上前に購入した衣服ばかり着ているような人間だという話に過ぎない。そんなふうな人間は珍しくないから、近未来に生きても戦争は火薬の匂いのままだ。

ところで7月だ。今は一日の朝だが、涼しい。なのに眠れないから、これを書いている。なにかおもしろいことはないかな、とか思いながら……。きっとなにも思い付かないと思いながら……。