Tue Aug 15 2017

当然だが、断続的に本を読んでいると、フィクションの側からの視点では、複数の「読書と読書の狭間にある現実」が生まれることになる。場合によっては、その「読書と読書の狭間にある現実」は、本の影響を受けようが受けまいが、その本の読書体験に含まれる。
既知の音楽を聴いて思い出す風景があったり、既知の映画を観て思い出す映画館からの復路などもある。そういった現実の記憶は、言わば固定化された物語を拡張する基本要素である。その基本要素による拡張の影響は、極めて小さい場合もあればその逆もあり、作品評価に少なからず影響を及ぼしている。
それはまあ、そういうものである。
で、その基本要素に積極的にアプローチすることで、現実とフィクションの間に一枚レイヤーを作る作品を、インタラクティブな作品と称することがある。それはまあ、そういうものである。錯覚が起こりやすいかもしれないが、現実という名の基本要素への積極的なアプローチは、基本要素を変化させるわけではなく、いわば現実とフィクションの境界線を拡張し、線から空間へと変化させることで新たなレイヤーを生成しているだけのことである。
このあたりも、まあ、そりゃそうね、って話。
で、昨今のビデオゲームが生み出す体験というのは、(現実そのものの、インターネットによる擬似的拡張化も伴い)上記のインタラクティブな作品が生み出す体験よりも二段階から三段階複雑になっていて、現状、批評の言葉がまったく追いついていない。
そんなことをぼんやりと考えていると、ビデオゲームの分野において、特殊な使われ方をしている「ナラティブ」という言葉があると知り、松永伸司というビデオゲームの研究をしている方が約二年前に書いた以下の論文を見つける。
ナラティブを分解する ——ビデオゲームの物語論——
ここで語られているのは、ビデオゲームが単独で果たしうる(物語の)拡張性(もちろん、そのプレイヤーを含む)についてである。
以前から時折触れている話題なのだが、最近おれが気になっているのは、そのこと(ビデオゲームが単独で果たしうる拡張性)であると同時に、どちらかと言えばゲーム実況が生み出すその拡張性にある。ゲーム実況が生み出すのは新しいレイヤーというよりも、なんというか、乗算に思えて……、だから、ゲームそのものが内包する数多の拡張性のそれぞれにさらに乗算が施され、ぜんぜんうまく言えないが、数値的には(なんだ、数値的って)天文学的な……、なんかそういうあれな気がしているのだ。
だからなんというか、ゲーム実況はゲームそのものが生み出すナラティブの外側に、位相のナラティブを複数階層、しかもそれぞれの階層に複数のナラティブを生成していて、かつ、表面的にはその集合体を固定化させているから、それに接するにはもう、それこそ脳に量子コンピュータを埋め込まなきゃ処理できないようなあれをあれしているように思えて仕方がない。で、錯覚と処理能力の遅さのせいで現実の境界線は明確さを失った感じになったりならなかったり、そんな感じでさらなる擬似的錯覚的拡張もまた、そこには乗算される。そんなあれだから、言葉が追いつかないのは当然(自然)のことである。
で、言葉が追いつかないので、圧倒的情報量にただ圧倒されて、呆然とし、感覚がインフレーションを起こしてしまい、いやいや、いかんいかん、と思うも、でも、っていうかなにがいかんのかわからん、ってことで困ってしまうわけだ。
まあ、ここではこれをとりあえず「ハイパーナラティブ問題」としておこうか。困ったもんだよね、「ハイパーナラティブ問題」。ふざけたことを言えば、早くAIに頭ん中キュレーションしてもらわないと真っ当に楽しめないよね。あるいは自己防衛としての不感症(負け組? 勝ち組?)? ……ね。どっちもどっちでいやだから、なんとかしたいところだな(——って、それってやっぱり言葉でってこと? バカじゃないの? あなた……、そんなこと考えているうちに、あっという間に死んでしまうわよ……)——

Mon Aug 14 2017

世界陸上が終わった。世間は盆休みである。

「文學界」2017年9月号に、筒井(康隆)さんの新作『漸然山脈』が掲載されていたため、購入して読む。『不在』以降の筒井さんの作品は、どれもどこかに夢の持つセンチメンタリズムを秘めている気がする。『漸然山脈』に限れば、短い作品だが、抽象性を高めるためにデコンストラクションを通底させているため、それは当然の帰結なのかもしれない。それにしても、なぜこんなことがまだできるのか。端的に愛なのだろう。
読み終えて、ふと思い付き『2017年世界陸上競技選手権大会』という表題の小説を書き始める。冒頭の5枚ほどを書き、すでに制約でガチガチになっている。(小説への)愛が圧倒的に不足している(あんまり読んでないしな……)。無茶苦茶をしてやるほどの愛がなく、だから空虚でしかない……。
『天体』という仮題を付け構想し続けているものは、すでにその期間が1年と半年を超えるし、そのあたり(愛的なもの)に関しては、なんとか書き終えるまで付き合ってやれるんじゃないかとは思っているが、そもそも確証を持って付き合い始めることなど不可能だから、なにかきっかけ(恋愛的なもの)があとひとつかふたつ必要なのだろう(それって……)。

音楽はBADBADNOTGOODというトロントのバンドと、TRADITION『CAPTAIN GANJA AND THE SPACE PATROL』というリイシュー盤ばかり聴いている。

惰性でできる程度のことしかやっていない日々。渇きと冷えしかない。ずっとそうだけど、あらためてやっぱり退屈。若い頃にもう少し自分を騙す習慣を持てば良かった。

Thu Aug 10 2017

しばらくぶりの日記。
このところは世界陸上をテレビで観る日々である。あっという間に日程も後半。ロンドンの気候もあってか、波乱の多い大会になっている。
順当、といえるものだと、ファラーが制した男子10000m、バンニーキルクの男子400m、ヴォダルチクの女子ハンマー投げあたりだろうか。
まず、ガトリンの制した男子100m。これは実は少し予想していて、予想していたのだけれどもやはり驚いたし、ドラマチックだった。ヨハン・ブレイクは4着。ボルトは最後に銅メダル。
それから女子100m。トリ・ボウイが勝つとは思わなかった。まさかの男女ともアメリカ。アウレを応援していたけれども、タルーが銀。コートジボワールの選手は独特の魅力がある。
男子110mハードルは、それほど意外な結果ではなかったのだけれども、アリエス・メリットが勝てず残念だったのと、シュベンコフがなんだかんだでメダルを取る感じがおもしろかった。ああいった、準決勝で目立たず、外側のレーンからメダルを持っていく選手というのは魅力的で、2011年の世界陸上テグ大会、男子100mで3着になったキム・コリンズを思い起こす。
そのキム・コリンズだが、今大会を最後に引退と宣言していたものの、出場ならず。残念。最後に見たかった。
最後と言えば、ファラーは今大会を最後にトラック競技をやめ、マラソンに転向するとのこと。昨年の五輪で引退を宣言していたものの試合後撤回し、世界陸上、前人未到の5連覇に挑んだ男子3000m障害のケンボイ(母国ではお父さんの愛称で呼ばれているらしい)はなんとか決勝に進んだものの奮わず。試合はケニアの若手であるキプロフが勝ち、年齢がひとまわり下の選手にバトンを渡した感じになったが、試合後のインタビューで引退しないとケンボイは述べ、すでにマラソンへの転向の準備をすすめているとも語ったらしい。マラソンはあまり興味のない種目だが、ファラーとケンボイが出るとなるとさすがに観たい。
女子1500mはディババ勝てず。それから選手の宿舎で食中毒があり、優勝候補であるボツワナのマクワラが隔離処置で男子400m決勝に出られなかった。200mの予選にも出られなかったのだけれども、これにはIAAFからの救済処置があり、雨の中マクワラはひとりでタイムとだけ戦った。これがなんだかグッとくるものがあって、マクワラは見事、準決勝進出のために設けられた基準記録を突破したのだけれども、やはり陸上競技というのは孤独な競技だな、と視覚的に訴えかけてくる時間だった。その後さほど時間を置かずに始まった男子200m準決勝もマクワラは勝ち上がる。バンニーキルクは400mとの掛け持ちから、連日競技がありさすがに疲労困憊なのか、なんとか決勝進出といった感じ。決勝は11日の早朝に行われるので、未来の話。
いちばん予想外だったのはアリソン・フェリックスもショウナ・ミラーも勝てなかった女子400m。これは面白い試合だった。マクワラが孤独に走った時に感じたことと逆のことを述べるが、やっぱり一人でやってるわけじゃないのだった。400mという肉体の限界を試すような競技だったからこそ起きた試合展開だったのだろう。
女子400mハードルのリトルが決勝へ進めなかったことに関しても、400mという距離の怖さを感じた。だからこそ、冒頭で順当な勝利といえるものとして記したバンニーキルクの凄さには、怖いほどのものがある。
それにしても世代交代の感の強い大会だ。長い間観続けてきた、自分と同年代のベテラン選手たちと台頭する若手たちとの対立構図を持った試合が多かった。2019年のドーハ大会も走っている選手はどれだけいるだろう。フィールドからはボルトもキム・コリンズもファラーもケンボイもいなくなる。今年はシェリー=アン・フレーザー=プライス(怪我や引退ではなく、妊娠のための欠場だった)やキラニ・ジェームス、バレリー・アダムスも観られなかった。
おれは陸上ファンではなく世界陸上が好きなだけだから、間の2年に彼らになにがあったのか、まだ辞めていないのかはわからない。だから、知っている選手は出てきただけで嬉しい。あ、まだやってたんだ、と思うのが好きで観ているのかもしれない。
ノブレーン・ウィリアムズ=ミルズは乳がんを克服して、今年も女子200mの決勝に出ていた。ルメートルは相変わらず、悲壮感漂う表情でスタートを待っていた。

Tue July 25 2017

それを見るためには、たいてい、顔をそちらに向けなければいけないのだけれども、必ずしもそれを見たいからそうするわけではなくて、たとえば音がしたからそちらを向くこともある。そして見る。
いや、やはり見るために顔をそちらに向けたのか。音がしたから、その正体を見ようとして顔をそちらに向けたのか。ただ、時には音がして、顔を向け、なにかを見ているようでなにも見ていないこともある。その方向を向いているだけである。
いや、なにも見ていないということはないのか。目は開いている。そこには何も無いわけではない。だから見ている。
でもやっぱり、その時はなにも見ていない気もする。

見られるための工夫として、四角い枠のあるものがいくつもある。自ずと発光するものも多い。そうすると、枠の外と内とは、なかなか同じふうには見られない。発光体は強いアプローチ。あるいは、だからこそ発光するものから目を背ける。どちらにせよ、強い意識がそこには向けられる。

とにかく目が疲れる。なにも見たく無い。そうしてひとは眠るのかというとそんなことはなく、来たる日の目を向けるべき発光体のために休息を取っている。だから目は疲れ続ける。みんな目が悪くなる。そして眼鏡をかけるだろう。

ところが眼鏡には枠がある。目にもっとも近い枠だ。その代わりではないだろうが、光を多少遮ってくれるレンズが付いているものが多い。とんだ気休め。結局やることは、枠の中の矯正レンズを経て、見られるための四角い枠を見るということだ。眼鏡をかけても目は疲れる。
中には、角膜をレーザーで削ることによって、眼鏡をかけないよう工夫するひともいる。たいへんなことである。枠から逃れるためには、角膜をレーザーで削らなければいけない。

角膜をレーザーで削った後、その目はどうなるか。やはり疲れる。
いったい、なにをしているのか。見ている。見る。果たして見ているのだろうか。ずっと、ただただ見せられているだけなのかもしれない。
それが嫌な時、どうすれば良いのか。角膜をレーザーで不適切に削るのも効果的だが、もっと簡単な方法もある。目を閉じる。するとたいてい、ひとは眠る。眠り続けるのは不可能だから、目を開く時がいずれやってくる。
それで呆れて、(だからたぶんやっぱりきっと)もう目が開いていてもなにも見ないようになってゆく。眼球から網膜へ、そしてそこから脳へは行かず代わりに虚空。そこに光は吸い込まれてゆき、やがてその日もあなたは目を閉じるだろう。
虚空から光は逆流し、目を閉じているあなたはなにかを見る。それは夢である。
目を閉じていても見る。

Sun July 16 2017

ピンナップのような雰囲気のものを作ろうと思っていたら、どことなく美人画の風情を帯びたものになってしまった。
気に入っているのだけれども使うことはなさそうなので、今日の日記に載せておく。

さて、いろいろと困ったことになっている。ピンチはチャンス、と言いたい気持ちもあるのだけれども、ピンチはピンチだ。
そうなると呑気なことを考えている時間もあまりなく、ここに書かれることも少ない。言葉の位相は、状況によって簡単に変化してしまうため、いつもここで語っているような言葉から少し離れてしまっているのだった。ここ、という軸があるからこそ気付けることで、そのことは幸いだが、それにしても草臥れる。

美しいものをほんとうに理解しようとし、感動し続けるということはとても困難なことである。そのことを諦めることはとても楽で、つまり簡単であり、まるで背骨が一本抜けてしまったような脱力を身体にもたらす。そうなった身体は、見れば一瞬でわかる。だからこそおそろしいのである。