Kodama Satoshi


涼しくなった後は、雨降りの日が続いた。ようやく晴れた今日は、妙に蒸す。
1巻から5巻を再度通読の後、市川春子『宝石の国』6巻読む。これまで繰り返し述べたが、21世紀の至宝。猫や夜風のように美しい。

いまは殊更のように語りたいことなど、もうなにもない。音がずっと聴こえている。主に交通の音。雨だった日は、雨音と、濡れたアスファルトを走り抜けるあの音が聞こえていた。報告、もしもし。でも応答はほとんど要らない感じ。わたしたちはいつもひとりで、99%が非現実で、ほとんどの場合、わたしたちなどではないわたしだから。それでなんとかここが、心地よい。


11日の夜は、我が家に妹が泊まったのだったが、案の定、明け方、飼い猫に枕を取られ、髪の毛を食べられたようだった。
案の定、というのも、これまで我が家に宿泊した人は、例外なくこの仕打ちを受けている。いったい、飼い猫はどういうつもりなのか、とずいぶん考えたが、ちっともわからない。

翌、12日。浅草に行きたいと妹が言うので、元妻を誘い、浅草を観光する。気の合うふたりとのお出かけなので楽しい。夕方、予定のあった元妻と別れ、スカイツリーに。妹は夜の新幹線で帰って行った。

それから、ぼんやりとしているうちに火、水、木、金が終わっていた。涼しくなってきたので、夏の寝不足を取り戻すかのような眠気。
いつもこの時節はぼんやりとしている。ぼんやりとしていると、まるで悪いことをしているかのような気分になるからこの時期は困る。涼しくて眠たくて、心地良いのに。別に、なにがどうなれば良いのかなんて、知りもしないのに——。


日記が10日、空いていた。
『パルプ』(著:チャールズ・ブコウスキー/訳:柴田元幸)、『幻獣時点』(著:ホルヘ・ルイス・ボルヘス/訳:柳瀬尚紀)、大橋裕之『太郎は水になりたかった』2巻、読む。
PS4で、『The Tomorrow Children』というゲームをプレイし始める。なんとなく、向いていないのでは? と思いながらも始めたのだったが、すっかりハマってしまった。

先月末あたりに、妹がディズニーランドに遊びに行くついでに、我が家に来訪したいと連絡があり、それが今日だった。森美術館で、今日が最終日だった「ジブリの大博覧会 ~ナウシカから最新作「レッドタートル」まで」を観たいのだという。
16時に六本木で待ち合わせたが、少し早く着いたので、森美術館前まで行くと、150分待ちと看板に。その旨をLINEすると、「ディズニーランド並みやな!」という返事とともに、「17時になりそう……。」とのこと。仕方なく、ひとり列に。思っていたよりも列はスムーズに進み、チケット売り場の寸前というベストなタイミングで妹が到着。
「ジブリの大博覧会」は、ほとんどボリュームの無い展覧会だったが、長時間待って疲れたので、それはそれで良かった。あっさり見終え、展示より混雑していた物販を抜け、帰路に。
写真は、長時間並ばなければ撮影できない「猫バス」をのぞくと、いちばん人気だった「おわり」の文字。ジブリの老後の生活を感じる展覧会だったが、高畑勲が「アーティスティック・プロデューサー」というよくわからない役割を負う『レッドタートル ある島の物語』という新作は、展示されていた絵コンテや原画を見る限り、面白そうだった。高畑勲『かぐや姫の物語』は、ここ数年の最大の衝撃だったため、彼の次の仕事には否応なく期待が高まるのだが、ただ、それをのぞいてもなかなか魅力的な画に見えた。
——とはいえ、映画館に足を運ぶかはわからない。いまのおれのリアリティは、正直、そんな感じではある。

16年09月11日


未明、リサ・チョロデンコ『The Kids Are All Right』を観る。フランス映画が続いていたが、これはアメリカ映画。

——というのも、ここ数日、別段、フランス映画にこだわって観ていたのではなくて、フランソワ・オゾン『彼は秘密の女ともだち』を観たのを契機に、いわゆるLGBT映画を追っていたのだった。観るべき作品は山のようにあるので、とりあえず目に付いたものから観ているが、『The Kids Are All Right』はとてもよかった。
ひとつ、良いと思えなかったのは音楽で、最後に流れる『The Youth』に顕著だが、叙情的な名曲を使い過ぎていて、それらがハズしにならず、上滑りしている感触があった。MGMTを使うっていうのも、『The Youth』が名曲過ぎるせいで短絡な印象に。とはいえ、それを踏まえても(かなり大きな問題だが)映画は良かった。

いちばん、印象に残っているのは、マーク・ラファロ演じるポールというキャラクターの造形だ。
ストーリー的にも彼の登場から物語は転がり始めるが、なんというか……、彼は絶望的な、「良い人だけど、バカ」として描かれた。

映画のイントロダクションを少し説明しよう。まず、家族——婚姻関係の女性同士と、彼女たちがそれぞれ人工授精で出産した、高校卒業間近の長女と15歳の弟の四人——が主人公だ。で、ある時、弟が、人工授精のための精子を提供した、生物学上の父親に会いたいと言い出す。年齢的な問題から、彼にはその男性とコンタクトを取る術がなく、仕方なく弟から相談を受けた姉がその男性を探し出す。それがポールである。
ポールは物腰のやわらかい優しい男性で、魅力的だった。ところが、そのことが、家族の中に不和を生じさせることになり——、というのが、イントロダクション。

……ポールはさあ、良い人だし、やさしいし、頭も悪くないし素敵なんだけどさ、……やっぱり、しょせん40過ぎまで自由に生きてきた男性なんだよな……。あからさまにそういう描写があるわけではなくて、このことは、家族(家の中での出来事)のシーンによって逆照射される。彼は結婚しなかった。おそらくそのチャンスはいくらでもあった。でもしなかった。決めなかった。それが彼の時間だった。だから、家族については悪くない頭で考え得ることしかわからない。そのことが垣間見えた時、上記の絶望的な、「良い人だけど、バカ」が浮かび上がった。
これがねえ、悲しいね。悲しい——だからこの映画は素晴らしいのだけれども……。

……それにしても、諦めずに学び考えることによって唯一知れるのは、自分がいかに愚かであるかということだけだ。そして、美しいことを丁寧に確かめる作業は、愚かさを自覚している人間にしかできない気がする。