Thu June 29 2017

テレビ番組の「クレイジージャーニー」で、石川梵という写真家を取り上げていたのだけれども、これがとても興味深かった。
インドネシアのレンバタ島にあるラマレラ村、そこでいまもなお行われている伝統的な捕鯨文化を映画化しようと取材する石川梵にカメラは同行しているのだけれども、その伝統的な捕鯨方法というのが、人力で銛を打ち込んで鯨を捕えるというもの。
火薬によってとおの昔に失われた文化だと思い込んでいた。さすがに船には機械的な動力源が搭載されていたが、銛は人間がその力で打ち込んでいた。どうもその場所の信仰がいまもなおその方法で鯨を殺すことに深く関わっているようだ。早く映画が観たい。
イシュメイルが捕鯨どころか、海にすらなかなか出ないので放り投げてしまっていたメルヴィル『モビィ・ディック(白鯨)』に再挑戦しようかと思う。

Wed June 28 2017

  • もしも、情報量の増大に比例するのが悪意の顕在化(即ち量)であり、反比例するのが幸福のイメージのサイズなのだとすれば、これはインターネットの敗北である。現状はまだ、ウェブにおいてしか上記の敗北のイメージは感じられないけれども、その敗北の印象を促すシステムの強固さを思えば、先行きには暗雲しか見えない。
  • 昔から、ときおり飼い猫のもきちはぜえぜえと息を苦しそうにすることがあったのだが、毛玉を吐き出そうとしているのだと思っていたためただ見守っていた。頻度が少なかったのであまり気にしていなかったのだけれども、先月は何度もそれをしたので、いろいろと調べ考えた結果、喘息なのだと思う。ただ、今月はほとんどやらなくなった。時節の関係だったのか、いちおう気にかけ、いろいろと掃除をしたのが良かったのかはわからない。
  • 家を出てすぐの所にある参道に若い測量士がふたり。ただぼんやりと、ともに同じとおくを見ていた。その先にあるバス停では、「Nature Of Law」とプリントされたTシャツを着た、サイド以外禿げた中年が格好良くガードレールに腰をかけていた。昨日も見た人だ。昨日も同じ時間にそこにいた。なぜそれを知っているかというと、通院の予約は今日だったのだが、昨日、間違えてシャッターの閉じた医院に行ったからだ。それはともかく、「Nature Of Law」とはどういう意味なのか。小さく焚火のイラストもプリントされているし「Law Of Nature」ならしっくりとはくる。
    5年ほど住んでいるが、なんとなくこの街が好きかもしれないとはじめて本気で思う。
  • 梅島駅前の日高屋は、他の系列店と比べてとくべつに美味いと思うのだけども、だとすると、同じ食材やレシビを使用しているのだろうから、その理由は梅島駅前の日高屋の店員にある。きっと、丁寧に、正確に仕事を、そしてそれを継続しているのだ。それはとても好きなことだ。すぐ横に、「ふうりゅう」という名のうまい坦々麺の店があるが、それでも梅島駅前の日高屋に入ることは良くある。
  • 処方箋薬局の薬剤師から、美味しいお好み焼き屋の情報をもらう。

Fri June 23 2017

徹夜で仕事をした後、通勤ラッシュのやや落ち着いた電車で取引先に向かう。いちおうの理由があって、家を出る前から自分がいらいらとしていることに気づいていたので、車内でその感じを無くそうと努めるものの、やはり取引先でいらいらしてしまう。
付き合いの長い、最近そこの社員になった男性がうまく事をまとめてくれたのだけれども、自分はひとりで責任感から逃れて生きてきたからこういうままなのだろう、と反省する。そもそも……、と帰宅後に考え始め、責任感の必要なポストに自分は就いたことが——、と思い返してみると、結構就いていたことを思い出した。

小学生の頃は生徒会の副会長で、中学生の頃は陸上部の副部長。高専の頃はバイト先で副班長というポストだった。
それで、自分がこれまでポストに就いたとしても全て副○○だったことを分析しようとすると、なんとなくはじめに想起したのが、小学生中学年の頃の通信簿のことだった。

よく仮病で休んでいたが、成績は良かった。たしか、○やら△やらで評価されていたように思うが、だいたい○だった。だけど、特記というか、先生からの注意書の欄に、親に向けて、さとしくんは正義感が強すぎるところがあるので気をつけたほうが良い、というふうに書かれていたのを読み、ショックを受けたのだった。
たしかに、当時から自分のそういうところは自覚していて、ごもっともだったのだが、先生に裏切られたような気分になったのである。

——そういう人間、それを「副」ではないリーダーはどう扱うべきか。
妙にこだわりがあり、正義感が強く、意外と行動的な人間を敵にまわすとすいぶん面倒である。いちばん良いのは、傘下に迎えて、その場所でその性質を発揮さえることではないか。なるほど。
——というわけで、自分がいかに副○○に適当だったかを再確認するわけだが、いらいらしてしまったおれはその後、取引先の方に(こいつハラペコで栄養が足りていないからいらいらしているのでは?)と、おにぎりと野菜ジュースを買い与えてもらい、ソファで二時間ほど勝手に仮眠を取り帰宅する。帰宅ラッシュ。こんな状態の電車に毎日乗るなんて、絶対に嫌だ。

Thu June 22 2017

今月の5日を最後に書かれていなかったので、17日ぶりの日記。
空白の期間が長かったためそれなりにいろいろとあったのだけれども、例によって詳細に思い出すことは難しい。

池辺葵『プリンセスメゾン』4巻と、ばるぼら・さやわか『僕たちのインターネット史』を読み、筒井(康隆)さんのインタビューが掲載されていたから「BRUTUS」の849号は、いつものようにオリジン弁当のイートインで読まずに購入して読み、Lordeの新譜『Melodrama』を聴く。
はなもとゆか×マツキモエ『WORM HOLE』をこまばアゴラ劇場で二日続けて観劇し、高嶺(格)さんや、大学の後輩たちと久しぶりに会い、神奈川の友人の家に遊びに行き、いつだったか終電を逃して押上駅から東京スカイツリーを背に家を目指したが南千住でくじけてタクシーに乗った。
どこかの駅で飛び込み乗車をしてきた、長身でヒールを履いた女性がかわいかった。
21日に「電脳世界の生物は幽霊か?」とツイートしている。

毎日いろいろなことを考え、いろいろなことを想っていたはずだが、どれもどこかに行ってしまった。

Mon June 5 2017

ひさしぶりに会う友人としばらく話したので、いろいろなことを思い出すことになった。
終電間近の電車に乗って帰路を行ったが、考え事をしていて最寄駅の隣の駅で降車してしまった。そこは東京に越してきた時に、新居の地名が付いた駅だから最寄のそれだと勘違いして降りた駅だ。特に用事のない場所だから、その駅で降りたのはそれ以来だったかもしれない。その場所の記憶が蘇り、いまのその場所があり、そのふたつから距離を感じなにかを想う。
人や場所や物から、その時のなにかを思い出す。その内容は複雑で、情景は輪郭を持たない塊としてそこに現れる。
家に帰る途中だったからその駅からは歩いて離れてゆくことになったが、歩みのたびにその塊はほどけて零れ落ちていくようだ。
できることならその塊に輪郭を与え、できることなら一般化と具象化を同時に施したい。そのために時折、何万、何十万の文字を書き連ねるが、その時のなにかとはまた別のなにかが生まれるだけだった。
いまもある場所、いまはない場所、生きているひとと死んだ人、壊れた物、いまも使っている物、会ったことのない人、知らない人と知らないもの、この世のどこにもない場所。なにかを感じるための情景は、特に条件を持たない。この世のどこにもない場所にいるこの世にはいない人が、乱暴に塊を置いていくこともある。
その瞬間にもっとも質量を持ったその塊、刻一刻と溶けてゆくそれに輪郭を与え、一般化と具象化の果てに保存しておきたい。さらにはそれを他者にも与えたいとすら思うことがある。きっとそういう時は、そこにあるのはまだ持て余す塊なのだろう。そうでなくなった時、もう一度逢いましょうと別れを告げることができる。
別れを告げるために、何万、何十万の文字を書き連ねる。もう一度逢うために何万、何十万の文字を書き連ねる。
方法は人それぞれだが、そんなふうにして別れと再会を考える行為が日常には潜んでいる。それは忘れることとは似て非なることで、それはきっとそうなのだ。
だからやはり、今日もこうしてすべてが溶ける前に輪郭を探している。すべての美しいと思った情景と再会するためには、それを繰り返すしかなさそうだ。