Fri Dec 29 2017

おそらく今年最後の日記になるだろう。特にあたらしい気分もないため、来年もしばらくはこの形の日記が続くと思う。
2017年はぼんやりとした年だった。ずっと眠かったかのような。それなりに発見もあったけれども、それなりはそれなり。
でも、昨年具合を悪くした飼い猫が一年、ずっと機嫌良く過ごしてくれたのは良かった。日記を書いているいまも、乗り切らないその体躯がおれの膝にのしかかっている。

あると思っていたものがどこにもない。あった試しなどないがいよいよ本当になさそうだ。だから私はそれを見ていなかったということだ。でもあらためて本来の姿を見つめてみようとは思わない。真実の姿と作用を侮っているのかもしれない。求めているものではないから軽視していた。ずっと狭間で微睡んでいた。今日もそうだったし明日もそうだろう。諦めているのだろうか。いつまでたっても旅に出る理由が見つからない。それでも旅立ってしまうから旅は旅。今年は家にいる年だった。来年も旅に出る予定はない。世界からこっちに来てくれるのなら悪い気はしない。だけどそれを望んでいるわけではなかった。

『Only Love Can Break Your Heart』は幾度もカバーされている曲だ。そこに確信があるとは思わないからだろうか。だからこれは歌になる。そしていつまでも歌のままだ。

Fri Dec 22 2017

単焦点レンズを付けて使っていたミラーレス(PENTAX K-01)が壊れてしばらく経つのだけれども、やっぱりカメラが無いのがつまらない気がして、中古の「GR DIGITAL Ⅱ」を買った。
十年前のカメラなので(当時の高級機だったとはいえ)ずいぶんと物足りないが、飼い猫と家にある多肉植物とそのあたりの道くらいしか撮らないので十分に遊べそうだ。

さて、今年ももうすぐ終わる。
2017年は一年を通し、ある程度定期的に日記を付けてきた。
ということで、今年の日記からの自選を五つ。

Sun Dec 17 2017

なぜこんなアンケートを取ったのか思い出せないが、「ホットカーペット」に略称が無い理由を考えていたことは確かだろう。
たとえば「ボイストレーニング」は「ボイトレ」、「インターネットカフェ」は「ネカフェ」、「クレジットカード」は「クレカ」。言葉の長さや使用頻度から考えると「ホットカーペット」にも略称があって良いのではないかと思ったのだった。

「ホットカーペット」

ところで、いま高校生の間では、LINEでやり取りを連続している途中、「風呂に入るため離脱する」を略して「フロリダ」と言うそうだ。
「ボイトレ」「ネカフェ」「クレカ」。略称がアイデンティティを保つには語感の良さが必需なのだろう。
また、略称がもたらす異化(というようなことはすでに十分と考えられているのだろうが、そういう文献はあるのだろうか)の側面を見ても、「ボイトレ」「ネカフェ」「クレカ」はその印象を軽微にすることに成功している。

上のアンケートを見てもらえばわかると思うが、「ホットカーペット」は、略称案の語感がどれもいまひとつ、というかバカみたいだし、異化作用を必要とはしていない言葉だ。

で、突然なことを言うが、こんなこと(上に書いてあることすべて)を考える必要はない。

英語の「スクール」の語源は古代ギリシャ語の「スコレー」だという。「閑暇」や「ひま」を意とし、閑暇を自由にかつ主体的に使うための技術を得るための場所として、それは「スクール」となったらしい。

今年もほとんど空白のままの手帳だが、来年のぶんも買った。同じ手帳だ。
ここは深い森でも人里離れた土地でもない。環状7号線に面している。四六時中、自動車の交通の音が絶え間ない。日当たりは良いので、朝は明るい。夜は遮光カーテンを閉じる。
ここでは「スコレー」を常に意識し、かつたくさん使える。

今日は寒いから、机ではなくリビングのホカペの上でこれを書いている。やらなくて良いことだ。もっといえば、別段、やりたいことでもない。
特にやりたいことでもない、やる必要もないことを継続してやるたったひとつの方法がこれだ。

この状況を得るのは、意外と難しいんだよ。

Fri Dec 15 2017

地下鉄日比谷線で往路をゆく時、「人間の“主な”コミュニケーションツールが“言語”である限りにおいては、人工知能は脅威とはならない。しかし、それ以外のものが“主な“コミュニケーションツールである場合においては、人工知能は脅威となり得る」というようなことを確信したのだけれども、それが確信に至ったのは上に書き記した言葉のみによってではない。

地下鉄日比谷線で復路をゆく時、確信したことを思い出しメモを取ったが、確信はもうどこかへ消えてしまっていた。
このようにそのほとんどが零れ落ちてしまうため、言語を軸にしてのシンギュラリティは容れ物のシンギュラリティに過ぎないだろう。もしかすれば、“あたらしいメタ表現”くらいは生成できるかもしれないが、それも期待し過ぎかもしれない。

——というようなこと、上のふたつのパラグラフの意味——を、「言葉のみ」で伝えることは不可能である。おわかりだろうか?
容れ物、あるいはトリガーとしての作用は果たすかもしれないが、それも限られた可能性だ。

果たして、純粋に“言語”だけを用いて「このこと」に気づくことは可能だろうか。
おそらくそれは可能だと思う。なぜなら、きっとそうだったからだ。そうだったとしか考えられない……、いや、そうではなかったのか……。

そんなふうに考えていることを自宅でいま書き残しているが、また別のなにか書き残しておくべきことを忘れてしまったようだ。散らつく影のように、それが見えた、ように思う。
忘れてしまった。そして思い出した。
思い出してみたものの、おそらくそれ(“また別のなにか書き残しておくべきこと”)は、復路であった地下鉄日比谷線に乗車したのが帰宅ラッシュであり、それに耐性が無かったせいで意識がぼんやりとしてしまったため、もはや原形を留めていない。

“言語”という障壁を壊さなければ人工知能は人工知能を超えないだろう。
ところで、人間はいつだって“言語”という障壁を壊すことで自らを破壊してきた。なぜそんなことをしてきたのか。
“言語”以外の道具を使う生き物であるという認識を軽んじ、なお“言語”で伝えることを諦めなかったからだ。そして“ありとあらゆる手段”を駆使して伝達した結果を、“言語”で伝えたと錯覚できる生き物だったからである。もちろん、これからもそうだし、むしろその破壊行為が加速度的に激しているのは“言葉”が質量を持つようになってしまったがゆえの蓄積のせいだろう。

果たして、純粋に“言語”だけを用いて「そのこと」に気づくことは可能だろうか。
おそらくそれは可能だと思う。なぜなら、きっとそうだったからだ。そうだったとしか考えられない……、いや、そうではなかったのか……。

そんなふうに考えていることを自宅でいま書き残しているが、また別のなにか書き残しておくべきことを忘れてしまったようだ。散らつく影のように、それが見えた、ように思う。
忘れてしまった。そして思い出した。
思い出してみたものの、おそらくそれ(“また別のなにか書き残しておくべきこと”)は、復路であった地下鉄日比谷線に乗車したのが帰宅ラッシュであり、それに耐性が無かったせいで意識がぼんやりとしてしまったため、もはや原形を留めていない。

“言語”という障壁を壊さずに、人工知能は人工知能を超えられるだろうか。
超えられたとすれば、それは明らかなるシンギュラリティ。

Tue Dec 5 2017

空白の間、何度か日記を書こうと思ったのだが、なにか特別書き残したいことも見つからず、結局ずいぶんと空いた。

ああ、そうだった。
11月30日。トビー・フォックスによるインディー(ビデオ)ゲーム『Undertale』が「PlayStation® Awards 2017」でインディーズ&デベロッパー賞を受賞し、トビー・フォックスが『Undertale』に登場する犬の被り物をして登壇していた。
それを受けてのいくつかのツイートを以下に。

あー、トビー・フォックス、DOGで出て来てたのか。さすがだなあ……。

『Undertale』、「あなたは今、このゲームをプレイしている」を超えて、「あなたは今、このゲームをプレイしているひとの実況動画を見ている」にまで迫ってるパラフィクションの(現在の)極北。創造物への愛は『モナドの領域』におけるGODと一緒だが、その愛が反転した姿もたしかにそこにはある。

でもたぶん、ゆくゆくは「モナドの領域」の所有権(支配権?)の反転をやりたいんじゃないかな。じゃないとDOGにはならないし。それはたしかに芸術の最終目標のひとつに思える。どう考えても無理だし。だからこそアプローチのスリルが表現足りうるわけだけど。

でも、順当に考えればDOGのふりをしたGODが限界だという宣言ととらえるべきか。『Undertale』の「under」を支配の意と考えれば、物語(tale)を語ることが可能な人物はトビー・フォックスしか存在しえないし。そうなるとやっぱり「モナドの領域」だし、DOGはGODのふざけた逆立ちでしかないか……。

トビー・フォックスには今後、もっとこの幼稚ともいえる遊戯に固執して欲しい。そういう幼稚さへの固執が反転することによって大きななにかになる(このこともDOGとGODの関係を拡大解釈できる)ということも確実に意識しているのが見て取れるし、きっとそこへの可能性は誰よりも感じているだろうから。