天使、インタプリタ

The Wounded Angel (1903)Hugo Simberg (Finnish, 1873 – 1917) 傷ついた天使が君を殺すならあるいは君は天使のダ・カーポ  あ……、(あなた……)あるいは——思い出……、誰……私の……、あ……、あるいは(あなたは……)——。  いつにも増して暴力的だが、もう(もう……)こんな話しか残っていない。 男は、暗く細い階段を上っている。やがて、おそらくは(おそらくは……)三階以上のフロアへと辿り着き、ひとつの扉の前に立ち止まった。男は私だ(私だ……)。私が男だ。ここが何階なのかはどうでも良い! 目的地はここで間違いない(間違いない!)。私の話を聞いてくれ(聞いてくれ……)! 表題のとおり、それは天使の話だ。私は天使の話を、あなたに聞いて欲しいと思っている。ところが、こうしたやり方は間違っている(間違っている!)。そのことを理解している(理解している……)。つまり、私はそれだけ追い込まれているのだと自覚しているし、同時に(同時に!)天使の話はこうでもしなければ話せないのだと信じてもいる。追い込まれているから約束を破るわけではなく、約束を守っていては天使の話はできないのだと気が付いたからこそ、私はいま、こんなやり方であなたに(あなたに……)話し始めているはずだ。そんな私を、あなたは疑っているだろうか。答えはどちらでも構わない(……)が、問題は私が扉の前に立ち続けていることだ。私は男だ。男はその扉が施錠されていないことを知っていた。やっと部屋に入った男は、あらかじめそこにあることを知っていた(知っていた……)椅子に掛けると、照れ笑いを浮かべ、だから最初に言ったとおり、天使の話なんですよ、と言った。 天使の話は、どこでだってできるわけではないんです。 男はひとり掛けのソファに浅く坐し、部屋の(部屋の……)床を見つめている。傍のフロアランプは男の顔に濃い影を落とし、締め切られたカーテンと壁との隙間に滲む淡い光は、それが日光なのか月光なのか街の灯りなのかを判然とさせず、ただ外があると想像させるだけだった。 たとえば、この光。私にとって(私にとって!)それがどうというわけではなく、他の人——つまりあなた(つまりあなた……)——にですが、私がどう見えているか。見られることにおいてではなく、見ることにおいて、これはふさわしい光なのか。それに気温や湿度、匂い、音。それから気分(気分!)です。私の気分(私の気分!)だ。あなたの気分は問題ではなく、重要なのは私の気分(私の気分……)で、それは不安定で、はずみで(はずみで……)すべてを台無し(台無し……)にしかねない。光や温度、匂いや音はそれを平穏にさせようとのぞむものの、いざ崩れる時には一助にもならない。 さっきから、ずっと何を言っているのだろう。 男はなお(なお……)間違え続け、初め(初め!)から開き直っている。最低な始まり(始まり!)方をしなければならなかった。 だから、天使の話です。ほんとうは(ほんとうは!)こんなことを話したくはないんです。でも、もうこんな話しか残っていない。追い込まれているんです。私は嘘つきではない。これだけ間違えながらも誰か(誰か!)を欺こうとする人間だったら、はじめからこんなに追い込まれることはなかったはずだ。狂っていると思われたほうが都合が良い。ほんとうに(ほんとうに……)こんな話はしたくない。それでも私の話を聞いて欲しい。こうする他ないはず! 約束を破らなくては、天使の話はできない。それだけが、私がこうして話すための拠り所なんです。 私は昔、猫を飼っていました。ようやくまともな話ができそうだ! 男は嬉々として話しはじめた。 それはそれは(それは! それは!)すばらしい猫でした。大きな体躯をしていて、毛は白く長く、瞳の青い猫でした。おとなしくて人懐っこく、優しい猫でした。私はその猫がとても大切で、唯一の(唯一の……)友達だと思っていた。ところが猫は死んでしまう。私の人生で、もっとも大きな悲しみ、喪失(喪失……)だった。仕方がない(仕方がない……)ので、その後、私は空想の中で猫と生きた。ある時、私は巨大化した猫の背中にしがみつき、街の上空を飛んだ。猫はそれまで、ずっと家の中で暮らしていましたが、よく窓の向こうを眺めていた。だからそこでは一緒に出掛けようと思い立ち(思い立ち……)、家の外で猫がどのような行動を取るのか予測できなかったので、常に一緒にいられるよう背中に乗れるくらいの大きさにし、車に轢かれてしまわないように空を泳がせた。ところが十分もしないうちに猫は家に帰りたがった。困ったのは、猫がとても大きくなってしまっていたことです。ふたたびそれまでのように暮らそうにも、猫は大きくて家に入れない。猫は家に入れないことに困惑していました。私はその様子にしばらく泣いてしまいました。 男はそこでもしばらく泣いた。 もとの大きさに戻せば良いと思われそうですが、そうはいかなかった。そこでの決まり(決まり……)は私の感性(感性!)がほとんどすべてで、たとえば、仮に小さくできたとして、その時の猫が元の大きさと寸分違わないかの確証は持てない。それではいけなかった(……)。もちろん、いろいろな案を検討しました。そのうちに、だんだんとその状況が億劫になってきた。全部を、無かったことにしたくなった。でも、それはもう一度(もう一度……)猫を死なせることになりかねない。この世で最もすばらしい生き物を、こんなことでもう一度死なせたりすれば、私は狂う。それで(それで!)、あなたに話を聞いてもらうことにした。天使の話を。本当に最低だ(最低だ!)! 男は声を出して少し笑い、見開いた目で何も見なくなった。笑った名残が口を少し開かせている。それは何も考えていない表情だった。こんな顔をする男は、決まって呼吸のことを考え始める。吸ったり吐いたりがいかに煩わしく忙しいか。男は立ち上がると窓際に歩み寄り、開いていた口を一文字に結ぶとカーテンを開いた。  なぜ(なぜ……)こんな話しか残っていないのだろう。いや、話はなぜ(なぜ……)いまも残っているのだろう。本当の絶望は、物語には宿らない(……)。 男は、暗く細い階段を上っている。やがて、おそらくは三階以上のフロアへと辿り着き、ひとつの扉の前に立ち止まった。やりなおし(やりなおし……)だ。私の他には、あなたしかそこにいてはならなかった。私は男だ。男はいつだって、天使の話をあなたに聞いてもらいたいと思っている。そしてずっと終わり続けているにも関わらず、一刻も早くこの状態が終わることを願っている。時には男も、誰かに聞かせるべき話がしたかった。想いは虚しく(虚しく……)、いつのまにか男はふたたび扉を開く。 だから、天使の話なんですよ。こんな気分でいてはいけないのはわかっている(わかっている……)。必要なことなのかもしれないが、でもこんなことを話したいわけではない! 男は掛け直すと、全身を弛緩させ黙りこくった。倦怠感に背骨を掴まれ、身じろぎもままならない。あなた以外の誰かに会いたい。約束を守り祝福されたい。男は私だ。私には思い出がある。それは、誰かに聞かせるべき話だろうか。思い出話(思い出話……)がはじまり、思い出話が終わる。祝福を錯覚した男は背骨をソファから引き剥がすと窓へ向かった。一瞬(一瞬!)のためらいののち、カーテンが開かれる。  男は、暗く細い階段を上っている(……)。その後の繰り返しは、思い出と記憶の欠損(欠損!)に一定の効果が見られた。昇降(昇降……)のための階段はより暗く細く、目的のフロアと部屋への到着はより感覚的となり、男は亡霊の気分で扉の前に立っている。そこに立つ時間はやがて削れて無くなり、誰にも聞いてもらえない思い出話はソファに体をあずける勢いで口から漏れた。 純粋な(純粋な!)思い出と記憶(記憶……)は欠損しつつあったが、残酷なことに、そのための行為は経験(経験!)として蓄積し、朦朧とさえしている男のその四肢にしがみつく。ある時、男の声が掠れはじめた。そのことに気が付いた男を照らす光、その時の温度と湿度、そこにある音と匂いは反応としての(反応としての……)ディレイに切り取られ、抽象化され紋章と化す。うっかり(うっかり!)紋章の向こうを見やれば、そこには思い出を話す男の姿がありありと目に浮かぶ。男は私だ。私は悲観的な言葉をいくつも並べた(並べた!)。荒唐無稽な数多の方法はすでに(すでに……)輝きを失い、あなたへの加害の意識すら(すら!)薄れつつあった。なぜ、いつも(いつも!)こんな話だけ(だけ!)が残るのか。男は天使の話をしなければならなかった。しかし、そこにはもう(もう……)なにもありようがなかった。 天使は立ち止まった。男が動かなくなってしまったからだ。そして(そして……)あなたを見つめた。他に見るものがないからだ(……)。私はその時、その場を見ていた。ほんとうは(ほんとうは……)そこから逃げ出したかった。私は男だ。動かなくなった男はそこを動かなかった。その場を見つめ続けていたかったからだ。 天使はあなたを見るのをやめ(やめ……)、無表情のまま視線を落とし動かなくなった。永い(永い!)時間が流れる。永いと感じた(感じた……)のは私で、天使にとってはそうではなかっただろう。あなたにとってもそうではなかったはず(はず……)だ。やがて男は動かされる。動かなくなった男に動くつもりはなかったが、永い時間は男を動かした。何かに押され転ぶようだったが、なににも押されていないことはわかっていた(わかっていた……)。天使を見上げると、天使は私を見下ろしていた。一体、なんのために! 遊んでいるつもりだったのだろうか。そんなはずもないのに。まったくもって最低だ。 以前にも似たようなことを仕向けたことがあるように思ったのは、天使の姿に既視感を覚えたからだった。その感触はくぐもっている。他の記憶と同様に、その記憶もまた私自身が埋葬(埋葬……)してしまったのだろうか。天使を見る方法はこれしかなかった。だが、見てどうなるというのか。これは解決(解決!)策ではない——一体、何を解決(解決!)しようというのか! とにかく(とにかく……)天使の話をすれば良いだけだ! そしてそれをあなたに聞かせる。その先に解決など無い(解決など無い……)だろう。絶望的だが、こんな気分でいてはいけないのはわかっている。手順(手順!)として必要なのかもしれないが、だとしてもこんなことは話したいことではない! 男は、ソファに掛けると肘掛けを握った。ひどく緊張していた。 聞いてもらうことは、さして難しくはないんです。こうして話しはじめてしまえば、自然と(自然と……)その状態になる。では、私が天使の話をしていると信じてもらうことが困難なのか。それもまた違うように思う。おそらく、あなたにこれが(これが……)天使の話だと感じて(感じて!)もらうことが必要なのだと思います。だとすれば(だとすれば!)、私ではなく、あなたの状態が重要なのかもしれない。いまの、あなたを照らす光はそれにふさわしいか。気温や湿度、匂いや音はどうか。それについて私ができること——つまり(つまり……)、言えることはあまりない。たぶん(たぶん!)、何かを願って繰り返すほかない。何を願うべきかわからないのに、何かを願い繰り返すことができるのか。あなたの幸福を願えば良いのか。とてもじゃないが、いまの私はそんな気分になれない。やはり約束は、破るべきではないのか。だからといって、私とあなたの間にこれ以上、どんな守るべき約束があり得るというのだろう(……)! 天使の話に、約束など必要ないはずだ! 守るべき約束も、破るべき約束も、風景(風景!)も。いま、私があなたに伝えているものがあるとすれば、それは、私にしかわからない苦悩(苦悩……)を私が悩み苦しんでいるということだけだ。最低だ。そうでしょう。あなたも、そう思いませんか? 男は至って真剣であり、そのことがその部屋を行き詰まらせた。私の他には、あなたしかそこにいてはならないのと同様に、男はあなたに問いかけてはならなかったのだ。 ここには幾つもの守るべき約束があり、そのことを男は知っていた。男は諦めて立ち上がると、投げやりな態度でカーテンを開く(開く……)。  男は、またも暗く細い階段を上っているが、疲れてはいない。疲れる理由など、なにひとつなかった。やがて、おそらくは三階以上のフロアへと辿り着き、ひとつの扉の前に立ち止まった。無言のまま扉を開いた男は、あらかじめそこにあると知っていた椅子に掛け、抑揚のない声で、だから、最初に言ったとおり、天使の話なんですよ、と言った。一見して意味を汲みとれそうにないものと関わるのは、ほんとうに辛い。天使は、この苦痛の連続とそれによる退屈と絶望、それを幸せに感じろとでも言いたいのだろうか。苦笑をため息とともに吐き出した男は、落ち着かない態度で部屋の空気をかき混ぜはじめた。 話をはじめる前に、カーテンを開けても良いですか。これは問いかけではないので、あなたの返答が仮にあったとしても、私はそれを待たずにカーテンを開きます。 男は立ち上がると窓辺へ進み、ふちから滲む光をカーテンの輪郭に沿って眺めている。 私の素性を話すべきなのでしょう。いや、素性以前に、名前や年齢、容姿や着ているもの——つまりは特徴です。それを話すことが大切な約束のひとつだと私は理解しています。 男は宙空に視線を彷徨わせていた。自分に害を与える小さな虫を探しているようだった。男は私だ。私は男だ。そこに虫はいなかった。 私は男だと何度か口にしたはずですが、それは私の性別の告白ではなく、ある都合によるもので、そもそも私が女である可能性も十分にあります。なので、私は人間だ、と宣言するのが筋だったのかもしれない。でも、なぜか男だと宣言することは可能でした。理由はわかりません。そんなことより、私はこれから、かつて共に暮らした猫の話をしようと思っています。その猫の容姿について語ることはできますが、名前は明かせません。猫に名前はありました。あります、と言うべきか。猫はすでに死にましたが、名前はなくなるわけではなく——、いや、 猫はもういない。だから名前もなくなったのか。そんなはずはないか。現にこうして、猫の名前は私が覚えている。猫とその名前の関係はどういったものか——それを考えることは、私がなぜ私のあれこれをあなたに教えることができないのか——それを考えることに繋がるのかもしれない。でも、私はいまからカーテンを開きます。ここには、あなたと私しかいてはならない。ここには守らなければならない約束と、破らなければならない約束があり、それは前者だ。ここには、あなたと私しかいてはならない——、あなたには関係のないことですが、私はこのカーテンを逃げ道としていた。窓外には他の誰かがいる——そう信じてこれを開いたことがこれまで幾度もあったはずだ。ここは狭く、約束があり、私の体力と精神力は限られている。だから詰むことがあった。もう先には進めない。そうした時の逃げ道がこれです。なんの気まぐれか、それは無いほうが良いのではないか。そんなふうに思ったので、私はカーテンを開こうと思い立ったのです。カーテンを開きます。他の誰かなど、どこにもいないと信じて。 そこには窓はなく、大きなモニターが備え付けられていた。カーテンと壁との隙間から漏れていたのは、真っ黒の映像の光だった。男はさほど動揺を見せずに踵を返すと、ふたたびソファに掛け、サイドテーブルに置かれた小さな機器を手に取り弄んだ。 これは、おそらくあのモニターを操作するための機械です。果たして、モニターにはなにが映るのか。そこに誰かが映ったとしたら——。 男はモニターをじっと見つめている。男は私だ。モニターに映る形——それが、精密に描写された誰か他の人間ではなく、たとえ円や三角といった単純な図形であったとしても、問題は私がそれを何者だと認識するかにある。カーテンは開くという行為を介さなければ逃げ道にはならなかったが、モニターとなれば私の意識の変容がすぐさまその平面に反映される可能性もあるだろう。だとすれば、いまの私はこのモニターと向き合うべきなのだろうか。それともふたたびカーテンを閉じるべきか。閉じてどうする。また繰り返すのか。この機械はいったいなんのためのものだ。あの——、と男は思考がまとまらないまま声にしはじめた。 私は、あなたがいることは知っている(知っている!)。あなたがそこにいると思っている(思っている!)。その逆はどうか。つまり、あなたは私がここにいると思っているかどうか。これは疑問ですが、あなたへの問いかけではない。あなたが、私がここにいると感じている(感じている!)かどうか。そのことを想像する視座と、いま私がモニターを見つめるそれは似ているような気がする。同じでは無いと思いますが、とおくはないように感じる。 男は立ち上がると、手にある機械でモニターを制御した。そこに現れた(現れた!)のは、灰色の平面を、境界を曖昧に、滲む紫色が絶え間なく泳いでいる様だった。それ(それ……)をしばらく眺めた男は、おもむろにモニターから光をなくした。手にあった機器を操作したかは定かでない。そしてまたソファに体をあずけた。 いまはまだ(まだ……)良いんです。いまはまだ(まだ……)、踏み入れていない。とはいえ、このままでいるわけにはいかない。ずっと頭の中の話をしているわけにはいかない。なぜなら、これは天使の話だから。天使——、やはり(やはり……)なにか(なにか!)、奇跡(奇跡!)のようなものを期待するほかないのか。この狭い、閉じた場所で。奇跡(奇跡……)のようなものを。最低だ。まったくうまくいく気がしない。もう(もう!)十分すぎるほどに暴力的だというのに、それとはまた別の暴力をあなたに振るいたい気分だ! どうせこのモニターは、私の失策を嘲笑いもせず、音も立てずに誰かの姿を借りてただ見つめてくるだろう! やっぱりだめか、と男は言い項垂れた。男は私だ。私は諦めた。光の変化がそれを男に伝える。男が顔を上げた先には、名前を知っている人間の姿があった。私の古い友人だった。ああ、お前か、と私は呟いた。  男は、暗く細い階段を上っている。やがて、おそらくは三階以上のフロアへと辿り着き、ひとつの扉の前に立ち止まった。男は私だ。それにしても、何も見えない。私はあなたの方を向き、提案する。 あなたが、代わってくれないだろうか。もちろん、これは問いかけではない。かつて、私も同意の言葉を聞きましたが、それもまた問いかけではなかった。 私は、あなたを瞳で見ている。 置き土産と言ってはなんですが、私のすばらしい猫をあなたに差し上げます。この先の部屋より大きな体躯をしていて、毛は白く長く、瞳の青い、おとなしくて人懐っこく、限りなく優しい猫だ。空だって飛べる。ただ、私にとっては大きすぎた。でも、あなたにとってはそうではないでしょう。そうではないんです。これは妙案だ。これで私は、すばらしい生き物をふたたび死なせずに済む。 その時、男はもうあなたの方を向いてはいない。男は私だ。私は扉を開くと天使になったが、最後まで天使の話はできなかった。  すばらしいあなたはこれからそこで猫を飼い、それを愛することになる。それはとても大変な仕事で、だからあなたには天使の話はできない。そしてすでにあなたは天使だから、そこからどこにも行けなかった。

ミイちゃんのこと

昨年、2019年の10月15日からミイちゃんという名前の猫と暮らしていた。 その前年、2018年の暮れに同じく飼い猫だったもきちが死に、言葉を介してのコミュニケーションが取れない生き物の苦しみを理解しようと努めることに憔悴していたため、当時は能動的に動物と暮らそうとは思っていなかった。 10月のはじめ、友人から、毎晩、近所にかわいい仔猫がやってくるのだけれども、痩せているし片目も悪くしているようなので心配だ、いま猫を飼う気はないか、という旨の連絡をもらい、悩んだすえ一度様子を見に行くことにした。その時点で予感していたが、結局、会ったその日に一緒に暮らすことを決めた。 動物病院へと出向き、雌猫であることと仔猫ではないことがわかった。体重は3kgに満たず、あまりに小柄だったから獣医も仔猫だと思ったみたいだが、検査を進めるうちに短期間では起こらない体の悪化がいくつかわかり、もう4歳にはなっているのではないかということだった。 共に暮らしはじめると、彼女はたしかに仔猫ではなく、街で暮らしてきた猫なのだと思えることがいくつかあった。餌を与える時しか近寄らず、その餌も小さな体に一気に掻き込んでしまう。しばらくは我が家での暮らしに馴染まずいろいろな場所に潜んでいたが、やがて居間の卓袱台の下に落ち着き、トイレの場所も覚えてくれた。ミイと名付けた。まったく鳴かない猫だった。 もきちと同じく病院を酷く嫌がることが辛かったが、あいにく悪いところが散見されていたため、その後も何度か動物病院には通っていた。ひとまずは、つぶれていた左目のことと、喉のしこりのこと。少しして、治療の甲斐があり喉の調子がよくなってきたのか、ミイちゃんは小さな声で鳴き始めた。それから、遊ぶことがが大好きなことがわかった。 でも、まだ不安だった。ミイちゃんがすっかり健康になり、長い間一緒に暮らせるとは思えなかった。 そのうちに発情期となり、雌猫の発情期がとても騒がしいこと、ミイちゃん自身もひどく体力を消耗していることがわかった。全く鳴かなかった猫とは思えないほど大きな声で毎夜鳴き、落ち着かない様子で家の中を動き回っていた。 今年の、というよりもこのところの春は曖昧で、だからミイちゃんの発情期も断続的に長く続いた。よく遊び、騒ぎ、眠る。コロナ禍の中、家の中で一緒に暮らしていた。Instagramにミイちゃんの写真を投稿しはじめた。段ボールで家を作ってやった。世の中とミイちゃんの発情期がもう少し落ち着けば、してやらなくてはならないことがたくさんあった。 4月25日の夜、ミイちゃんが餌を吐き出した。それまでもたびたび餌を吐き出すことがあり、もとより喉がよくないことと発情期ゆえに始終鳴いていることが原因だと考えていた。たいてい一度吐けばけろりとしていたのであまり心配はしていなかったが、その夜は断続的に何度も吐き続けた。そのうちに白い泡のようなものしか吐かなくなり、翌日の朝一で世話になっている動物病院に向かった。 救急の必要はないということで、血液検査やレントゲン、エコー検査などをしてもらい嘔吐の原因を探った。ついでに測ってもらった体重は3.6kgに増えていた。 新たにわかった体の悪いところは複数あり、嘔吐の原因ははっきりと掴めなかった。ただ、検査から見るに肝臓が特に悪く、それを基に治療方針を話し、ひとまず点滴を打ってもらうことにした。獣医が点滴の準備をしているのを診察室でミイちゃんと待っていると、彼女の呼吸がひどく荒げ出した。点滴の準備を終え戻ってきた獣医に伝えると、ミイちゃんは慌てて酸素室の中に入れられた。このまま帰すのは危険なのでしばらく酸素室で様子を見ると言われ、病院を出て10分くらいふらふらと歩いていると着信があり、容態が思わしくないためすぐに病院に戻ってきて欲しいと伝えられた。 あわてて戻った先の酸素室でミイちゃんはとても苦しそうだった。意識は混濁し、ただ呼吸が苦しくて仕方がないという様子だった。どうしようもないようだった。ミイちゃんと呼んだが、きっと聞こえてはいなかっただろう。それから10分もしないうちにミイちゃんは死んでしまった。 翌日葬儀を終え、ミイちゃんとの暮らしが突然終わった。元気そうにしていると思っていたが、ずっと辛かったのだろうかと考えながら、もう住む猫のない段ボールの家を眺めた。遊ばれないボールが転がっている。あんなに面白いボールだったのに。ミイちゃんがいつもそこにいたから、卓袱台の下を覗く癖がついていた。毎年冬は炬燵を出していたが、寒くなってきたころ、卓袱台を片付け炬燵を出そうとするとミイちゃんが怒って隠れてしまい、もう炬燵は諦めたのだった。 なんて悲しいんだろうか。ただそれだけだ。家の中にまた残像が増えてしまった。しがらみは避けたいが、忘れる術は知らないし、知っていたとしてもそれはしないことだ。だから悲しむほかない。ミイちゃんはすごく可愛い子だった。できることなら、もっと長く一緒に暮らしたかった。