2021年1月31日(日)

26日(火)と27日(水)の記憶がない。
最近はTwitterをあまりやっていないので備忘録の役目を果たすものがなくなってしまった。ただ、27日付のツイートで奥浩哉『GIGANT』がおもしろいと言っていたのでそうだったのだと思う。
あと、『ユリイカ2021年2月号 特集=坂元裕二』を読んでいたはず。

28日(木)は東京に雪が降った。

夜、テレビで『にじいろカルテ』第二話。第一話で感じた違和を考え直す契機となる回だった。引き続き見ようと思う。

29日(金)は家で絵を描いていた。普段使わない画材を使ったのでなかなかうまくいかず苦心する。
夜、テレビで『俺の家の話』第二話。

30日(土)、風が強い一日。早朝から引き続き絵を描いていた。一晩の間にわかったことがあったのか、午前に一枚、午後に一枚、形になる。

31日(日)、晴天。昼過ぎ、自転車で近所の公園に出掛けドッグランで犬を見る。ここ数日の中では比較的あたたかい一日だったが、小型犬は洋服を着たものが多かった。大型犬はみな洋服を着ていなかった。

2021年1月25日(月)

税務署から確定申告の書類が届いた。
昨年度の確定申告の締め切りは例年とは異なり、4月の半ばまで延長された。新型コロナウイルスの影響である。やったぜ、とばかりに締め切りぎりぎりまで書類を手にしなかった。思えば牧歌的な状況だった。あれから一年が経ったのか。

深夜、Netflixで『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を見る。初見。

音楽はArctic Monkeys『Live At The Royal Albert Hall』。

2021年1月24日(日)

すでに月末だというのに、1月の日記はふたつしか書かれていない。理由は単純で、なんのやる気も起こらない日々を過ごしていたからだ。いまもまだ無気力なままだが、これ以上日記の空白が大きくなり過ぎるのは鬱陶しい、そう思う程度にはいろいろなことは気にかかっていて、それが回復を意味するかはまだわからない。

さて、そんな中いくつか映像を見た。時系列にも沿わずに列挙するが、『にじいろカルテ』第一話、『俺の家の話』第一話、『有田プロレスインターナショナル』エピソード9から15まで、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』。
テレビドラマである『にじいろカルテ』と『俺の家の話』に関しては、前者は脚本が岡田惠和であるため気にかけていたのだったが、楽しみ方はわからないでもないが継続的に見ることに関してはさほど気乗りしていない。後者は、長瀬智也主演に惹かれて。概ね期待通り。次も楽しみだ。
Amazon Prime Videoの『有田プロレスインターナショナル』はとても面白く、前シリーズである『有田と週刊プロレスと』から全てのエピソードを視聴している。前シリーズでは進行役としてレギュラー出演していた倉持明日香が『有田プロレスインターナショナル』からはいなくなっていて寂しかったが、エピソード10、11、15にて再登場があり、嬉しい反面、『有田プロレスインターナショナル』のおもしろさが、いかに『有田と週刊プロレスと』とは異なっているのかが浮き彫りとなったエピソードにも感じられ、——とはいえ、その『有田プロレスインターナショナル』のおもしろさというのは存外複雑な気がして、思いがけず色々と考えさせられている。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』もまたAmazon Prime Videoだが、なぜ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』を飛ばして見たのかと問われれば、新劇場版はすでにすべて見ており、特に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』は好きで何度か見ていたからだ。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』は、アニメおよび漫画(どちらも鑑賞済み)とほとんど同じ展開を辿るので、わざわざ見返すこともなかったが、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』は一度しか見ていないうえに、ちっとも意味がわかっていなかったので、最新作の前にもう一度予習しておくつもりで見たもののやはりよくわからなかった。いちおう作品考察を行っているYouTubeの動画やブログ記事などにも多く目を通したが、まあ、待つほかない。
ただ、アニメには疎く、根がミーハーゆえに見ている程度なので、待つのは全く苦ではなく、どちらかといえば気づけば公開が終わっているどころか、サブスクに登場してずいぶん経っていた、というようなことに成りかねない程度の姿勢だ。
たとえば『魔法少女まどか マギカ』などもテレビシリーズは見ているが映画のほうは未見で、長期連載のマンガ、『ONE PIECE』や『キングダム』、『はじめの一歩』などもある程度までは読んでおり、当時はそれなりに夢中になっていたのに、いまではとおいものに感じられる。時代と共にあってこそのものが、それゆえに持つ瞬きだけが時間を教えてくれる。

「ミーハー」という言葉はすでに死語に近いが、確かに現代的な衝動ではないし、この20年ほどでそうあるためにはずいぶんと能動性が必要となり、それなりに大変で、すいぶん前から娯楽ではなく、自分に課した責務というふうになってしまっている。現代の瞬きの光は弱く、遍在を見せる。おぼろげになる時間を、なんとかとらえたい。

そんなわけで、音楽はOlivia Rodrigo『drivers license』。
なぜそんな責務を自分に課したのかはわからないが、時には良いこともある。

2021年1月14日(木)

ずいぶんと日記が空いてしまい、その間のことはなにもかも忘れてしまった。記憶の断片を無造作に並べて誤魔化す。

7日(木)は飼い猫だったもきちの誕生日。翌8日(金)はDavid Bowieの誕生日。
もきちを仕事部屋の椅子で抱えていると、彼は、ただそれが目の前にあるからか、決まって俺の背後の笑顔のDavid Bowieのポスターを見つめていた。
よく、七尾旅人『DAVID BOWIE ON THE MOON』を聴きながら、死んだもきちのことを思い出す。
そんなわけで、なんとなく繋がりのあるふたつの生き物だったもの。

西川昌希『競艇と暴力団 「八百長レーサー」の告白』を読み始める。

音楽はあまり聴かない日々だった。

2021年1月5日(火)

謹賀新年。

元日からの日々は主にテレビを見て過ごしていた。コロナ以降、ふたたびテレビに関心を抱きつつあるのだが、その理由がなにかを考えている。

1日(金)、西新井大師への初詣の人出は例年に比べてずいぶん少ない。夕暮れ、初詣に。

2020年12月31日(木)

大晦日。快晴。テレビで『義母と娘のブルース』の再放送を見ながら少し掃除。

27日の日記で、岡潔が詩人について語っている箇所を引いたが、その手前で岡はこうも言っている。

 日本は、戦後個人主義を取り入れたのだが、個人主義というものは日本国憲法の前文で考えているような甘いものではない。それに同調して教育まで間違ってしまっている。その結果、現状はひどいことになっている。

小林秀雄・岡潔『人間の建設』、新潮社、2010年、71ページ

向いてもいないのに、表層的なぬるい個人主義に寄りかかってひどいことになっている、その結果、パノプティコン効果による歪みの産物が肥大化しインターネットは終わりを迎えた。2019年は、インターネットの広告費がテレビのそれを上回った年である。YouTuberは、実際的には、法よりも視聴者の判断する善悪を恐れているだろう。ぬるい個人主義の弊害は、最後には法をもねじ曲げるだろう。

2020年、コロナの年、ぬるい個人主義とそのパノプティコン効果でこの国の人々はみなよくわからないままマスクを着用し外出を控え、結果、被害は欧米と比して小さい。だが、それは簡単に裏返るだろう。いまのここには重しがない。予兆は十二分。大晦日に言いたくないことだが、来年が怖い。

さて、11月に再開したこの日記はまだしばらく続く予定。来年は良い年になると良いが、まだしばらくは仕方なしにおとなしく暮らすことになるだろう。いくらでもおとなしく暮らしたいところだが、いい加減、金がない。いつものことだけど。

音楽はTheo Parrish『WUDDAJI』、The Avalanches『We Will Always Love You』。

2020年12月27日(日)

この二日間は体調が悪くおとなしくしていた。おれは体調が良くてもおとなしいが、それはともかく、仕方がないのでおとなしくしている、というのは存外難しいことなのだ。

今年は例年よりも、仕方ない、と口にする人が多かったのではないだろうか。テレビはコロナのことばかりだから、街頭でインタビューを受ける人は、よく、仕方ない、と言っていた。経済を回さないと、などという、教育され切ったがゆえの言葉を耳にして驚くこともたびたびあった。

美術家の高嶺格さんが、年始に催される『文化庁メディア芸術祭 京都展「科学者の見つけた詩-世界を見つめる目-」』という展示会に、おれが9年近く前に参加した『ジャパン・シンドローム~関西編』を出品しているという案内をLINEでくれた。
興味深いのは副題である「科学者の見つけた詩-世界を見つめる目-」で、高嶺さんは『ジャパン・シンドローム~関西編』と共に展示されている湯川秀樹と朝永振一郎の原子力に関する言葉を写真で送ってくれた。研ぎ澄まされた言葉だった。

いま読んでいる小林秀雄と岡潔の雑談を編んだ『人間の建設』において、数学者の岡は詩人をこう語っている。

 <……>つまり一時間なら一時間、その状態の中で話をすると、その情緒がおのずから形に現れる。情緒を形に現すという働きが大自然にはあるらしい。文化はその表れである。数学もその一つにつながっているのです。その同じやり方で文章を書いておるのです。そうすると情緒が自然に形に現れる。つまり形に現れるもとのものを情緒と読んでいるわけです。
 そういうことを経験で知ったのですが、いったん形に書きますと、もうそのことへの情緒はなくなっている。形だけが残ります。そういう情緒が全くなかったら、こういうところでお話しようという熱意も起らないでしょう。それを情熱と読んでおります。<……>ある情緒が起るについて、それはこういうものだという。それを直感といっておるのです。そして直感と情熱があればやるし、同感すれば読むし、そういうものがなければ、見向きもしない。そういう人を私は詩人といい、それ以外の人を俗世界の人ともいっておるのです。

小林秀雄・岡潔『人間の建設』、新潮社、2010年、71ページ – 72ページ

この後の雑談にも引用したい言葉がいくつかあり、やがて小林が「確信」という言葉を口にする。それを受け、

 <……>確信のないことを書くということは数学者にはできないだろうと思いますね。確信しない間は複雑で書けない。

前掲『人間の建設』、111ページ

つまり、直感を確信へとつなぐために数学があり、岡は最終的に書かれる「確信」と通ずるものを「詩」に感じているようだった。

こうなってやっと、仕方がない、と言える状態が訪れる。
なので、とにかく、仕方がないのでおとなしくしている、というのは存外難しいことなのです。

音楽は引き続き三村京子さんの『岸辺にて』。

2020年12月25日(金)

16日以降、十日近く日記が空いてしまったので断片的な記憶しか残っていない。

18日(金)、飼い猫だったもきちの二周忌。写真や遺品などの手入れ。ついでに、りゅう、デーデ、ミイちゃんの写真も綺麗にする。

空白の間、まだ読んでいないものもたくさんあるのに新しく本を何冊か買う。小林秀雄と岡潔の雑談を編んだ『人間の建設』においては、間違えて二冊も買ってしまった。

 <……>矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです。<……>人というものはまったくわからぬ存在だと思いますが、ともかく知性や意志は、感情を説得する力がない。ところが、人間というものは感情が納得しなければ、ほんとうには納得しないという存在らしいのです。
小林 近頃の数学はそこまできたのですか。
 ええ。ここでほんとうに腕を組んで、数学とは何か、そしていかにあるべきか、つまり数学の意義、あるいは数学を研究することの意味について、もう一度考えなおさなければならぬわけです。

小林秀雄・岡潔『人間の建設』、新潮社、2010年、40ページ

新潮文庫として編まれたのは2010年のことだが、初出は『新潮』1965年10月号。人間のイリュージョンを数学が解明したのは半世紀以上も前のことのようだが、それからの時間、人間は知性を失い続け、感情だけで納得できるようになったようだ。感情が納得さえすれば、知性はいらないのです。

22日(火)、夜、テレビで『姉ちゃんの恋人』最終回。良いドラマだった。

音楽は、三村京子『岸辺にて』。

2020年12月16日(水)

12日(土)、午前、大学の後輩の結婚披露宴のため広尾に。この時世だから開催に際してずいぶん葛藤もあったと思うが、とても良い宴となった。しかも、寒くなってきたので加湿器とヒーターが欲しいと思っていたのだが、両方を兼ね備えた品物を抽選の景品でいただいた。
夜、上記の宴で一緒だった今野くんと橋本さんと『Dead by Daylight』。

13日(日)、前日、慣れないスーツ姿で慣れない都会に出て緊張したのか体が痛い。昼、自転車でロイヤルホストに行き、ステーキを食う。その後、ナイトシティへ。

14日(月)、記憶喪失。

15日(火)、昼過ぎに起きる。いよいよ冬らしい寒さになった。先月植え替えた多肉植物たちはちっとも元気がない。
夜、テレビで『姉ちゃんの恋人』第8話。来週で最終回。深夜、ナイトシティでの生活にひと段落をつける。

16日(水)、午前起床。妹の弥加の命日。寒くてなにもする気が起きない。
深夜、The Avalanches『We Will Always Love You』を聴く。

2020年12月11日(金)

9日(水)のことはほとんど覚えていない……。

10日(木)、午前四時過ぎに起床し、ナイトシティへ。『サイバーパンク2077』という狂気的なゲームが発売されたのだった。2020年のバベルの塔。

11日(金)、やはりナイトシティへ。途方もない。

明日は大学の後輩の結婚披露宴に招待されているので、夜、白髪を染める。マスクで口元を覆った姿で久しぶりに会う先輩が白髪だらけだと、ずいぶん老けた印象を持たれるのではないかと危惧してのことだ。