愛しのもきち

上の写真は、今月の7日に、おれのベッドでくつろいでいたもきちである。

そんな愛猫のもきちだが、いまはすっかり元気がなく、リビングで昏くしている。今日、末期の腎不全であることがわかった。
その疑いは予てからあったのだけれども、おとといまでは機嫌よく過ごしていたのであった。

昨日、飼い主であるおれも具合を悪くし臥せっていたのだけれども、もきちもいつになくひとりで眠っていたことが意識の片隅にあり、今朝、彼が餌を嘔吐していた声で起床すると病院に急行した。
検査の結果は、おとといまで機嫌よくしていたことが不思議な数値を示していて、入院も打診してもらったが、もきちは極度の病院嫌いのため通院する旨を伝える。

元妻が飼っていたりゅうという名前の猫は10歳の時に腎不全で亡くなっていて、そうした経験から心づもりはしてきたつもりだったが、それでも心痛が果てしない。
おれは、すごくもきちが好きなのだ。彼は、とてもやさしくて、美しい猫だ。

元気のないもきちを見つめていると、滂沱しつつも、愛おしいから笑みもこぼれる。
どのくらいになるかはわからないが、そんな時間がこの後つづく。

私、いまからとどめの星

(ここでは繰り返し述べてきたことだが)ここは基本的に日記を書き記す場所として使ってきて、時折(大抵は、ただの気分——その時そこに書き残されている文章の蓄積に嫌気が差すことがままある。あるいは形式を変えようという意図など)、ノートを新調する感覚でそれまでのものを消し、ふたたび新たに書き始める、ということを繰り返してきた。

そんな感じで先月(2018年2月)に何度目かの白紙化をおこない、それからひと月以上放置していたのだけれども、その間は手帳にメモを取ることを日記代わりにしていた。
ただ、それでもやはり習慣化されているここへの記述を行っていなかったため、その間の記憶は連続性に乏しく、ああ、やはり忘れてしまうな。ひどく忘れる。関心はすぐに散る。

まだ、今後、こことどのように付き合うか決めていなかったのだけれども、関心がすぐに散るのは恐ろしい。
そんなわけで、(ひとまず)散り散りのメモをまとめる目的で、またここをみっともなく散らかすことを認めようかと思う。

セルフタイトルのデビュー作をリリースしたSuperorganism。
上の動画はシアトルのラジオ局であるKEXPが運営するYoutubeのチャンネルにアップロードされていたライブの様子。
『Superorganism』はどの曲もとても良いがミックスはいまひとつだと思っていて、このライブのほうが音が好み。
SPACE SHOWER NEWSによるCHAIとのクロストークも良かった。

音楽は、その他には国府達矢『ロックブッダ』、A.A.L『2012-2017』、Soccer Mommy『Clean』。

書籍に関しては、先ず書き残しておかなければならないのが阿部共実『月曜日の友達』。
これは元妻に薦められて読んだのだったが、掛け値無しの傑作だった。

あとは、ブルーフィルムの巨匠と言われた人物(筆者の名前は伊集院通となっている)による『回想の「風立ちぬ」―土佐のクロサワ覚え書き』。小林信彦『日本の喜劇人』、笹山敬輔『昭和芸人 七人の最期』など。

毎号買う雑誌というのは無くなってしまって久しいが、時折は購入しているものに「BRUTUS」と「GINZA」がある。
その「GINZA」の250号の特集が「流行ファッション写真集」だと知り、その攻め具合に食指が。後から知ったのだが、間も無く編集長の交代があるのだという。それを理由に思い切ったようにも感じられる内容だった。

次にビデオゲーム。最近は『Fortnite』というゲームをプレイしていて、それを契機にNinjaというアメリカの人気プレイヤーを知る。
特に「Winning With Fans!! – Fortnite Battle Royale Gameplay – Ninja」というタイトルの動画が良かった。
(おそらく偶然に)Ninjaのファンである少年とNinjaがデュオで『Fortnite』というビデオゲームに勝利する(このゲームは100人のプレイヤーが同時にプレイするオンラインのゲームで、一つの空飛ぶバスに乗り込んだ100人はそこから無人島にそれぞれ飛び降りていき、その後、そこに落ちているアイテムを拾いながら戦い、最後のひとり、あるいは一組みとなれば勝利、というバトルロイヤル形式のもの)動画なのだが、その少年がなんともかわいらしい。

(余談だが、とにかくいまのこの国のクソみたいな政治には怒りしかない。『Fortnite』の敵がこの国の腐った政治家どもだったら、俺はゲームはあまり巧くはないが、それでもすべての敵にヘッドショットを食らわせてやれるだろう)

最後に——まだいろいろとあるが、このくらいにしておかないときりがない。

表題としている『私、いまからとどめの星』という言葉。
長い間『電子のテルマ(仮題)』という小説の構想を練っていたのだが決め手に欠けていて、そこに突然『私、いまからとどめの星』という言葉がワンダーをもたらしたから、『電子のテルマ(仮題)』には申し訳ないが、いまは『私、いまからとどめの星』。
だいたい見えているし、ときめきだってある。

やること、やるべきこと、やりたいこと、そしてそのやり方もまだまだ無限にあるらしい。別にそれが良いとも悪いとも思わない。ただ、それが事実だ。