Thu Jan 18 2018

この三夜ほどで、『地下鉄道』(著:コルソン・ホワイトヘッド/訳:谷崎由依)を読む。好きな小説だった。
それほど長い長篇ではないし、訳文も読みやすい。なのに三夜もかかったのは、それぞれの文章の密度が高く、風が吹くように凄惨なことも起こるためだった。
またひとつ、大きな無知を知る。このペースだと死ぬまでなにも知らないままである。

何度か付けようと思ったのだったが、一週間も日記が空いてしまった。
16日の深夜に、高嶺(格)さんがメールをくれ、今月25日まで京都で展示をしていると教えてくれた。
送ってくれたリンク先には、『歓迎されざる者』という作品であることと、漂流物の写真が掲載されていた。
その後、少し調べると、どうやらこの写真は昨年末秋田に漂着した船のようであった。

『秋田領民 漂流物語』(著:神宮滋)という本があり、読んでいないのだけれども、それは鎖国の時代下、不慮の漂流の果て、生還した秋田のひとびとの話が記された本らしい。読みたいのだが、見つけられていないのだ。
それにしても、「秋田領民」でくくられているのが気になる。秋田は漂流と縁深い土地なのだろうか。
芸大卒、その前は高専を中退した学歴のおれは、高校レベルの国語、地理、歴史をまったく学んでいないため、もしかすると「秋田は漂流と縁深い土地なのだろうか」という問いは、とても浅薄な問いなのかもしれない……。だからこそ読みたいし、また別の「漂流」にまつわる本も購入済みである(『地下鉄道』を先に読んでしまったが……)。

そうした関心を持っているいま、上記の『歓迎されざる者』という作品は非常に興味深い。やはり観に行くべきだろう。
悩んでいたが、この日記を書くうちに行くべきだと思った。だから、準備をしないと……。

Thu Jan 11 2018

上の写真は、10日の朝、仕事部屋からリビングを撮ったものだ。
日常的に写真を撮るが、日常的に外出はしないため、写真は家の中で撮られるものが多い。同じような写真がたくさんある。それでもふとこの写真が気になり、中央に映る星——David Bowieの12inchシングル『★』——とランプシェードを見つめるうちに、もしかして、と調べると、1月10日はDavid Bowieの命日だった。

別段、David Bowieのファンでは無いのだけれども、『Hunky Dory』、『The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars』、『Low』、『★』は良く聴くアルバムだし、昨年の今日(11日)は、天王洲でデヴィッド・ボウイの回顧展「DAVID BOWIE is」を観ている。
なんとなく覚えていたのだろうか。

10日の日記としては、その後、昼過ぎに取引先へと出向く。
角を曲がると明治座の柱に貼られた「コロッケ特別公演」のポスターが飛び込んできて圧倒される。
帰路、秋葉原で腕時計の電池交換。

11日。
昼過ぎ、思い付き『N.O.』を聴く。

学校ないし/家庭もないし/ヒマじゃないし/カーテンもないし
電気グルーヴ(1994)『N.O.』より

聴くたびに、学校はない、家庭もない、暇はある、カーテンはある、と反応してしまう。
だからなんだ、という話だが、おれにとってこれはそういう歌だ。

Tue Jan 9 2018

最近はThe Doorsの1stばかり聴いている(時々『Strange Days』)。
あとは、Cigarettes After Sexの1st、卓球と旅人『今夜だけ』、Saint Etienne『Foxbase Alpha』など。
本を読んだり映画を観たりはしていない。
元旦にデボラ・フランソワとロマン・デュリスが見たくなって何度目かの『タイピスト』を観たくらいか。

この二三日は体調優れず。いまは10日の朝だが、少し落ち着いた。
乗っていた大型旅客機が墜落する夢を見る。わかりやすい夢なので夢占いを調べてみたが、目標の頓挫の予知夢、というような内容が多かった。
調べておいてあれだが、夢占いは信じていない。あれは、シニフィエの位相がその時どこにあるかで容易にプリズムだし、夢において重要なのはディティールだと考えているからだ。
例えば、今朝俺が乗っていた旅客機は離陸に失敗し墜落したが、熟練の機長の判断で死なずに済んだ。
ただ、離陸の際に九龍城砦にありそうな高層集合住宅は何棟か破壊されたし、墜落場所付近にあった銭湯で昔ながらの極道の葬儀があり、そこを中心に抗争状態になりつつあったので、流れ弾に当たった乗客もけっこうな数がいた。自覚夢ではなかったけれども、俺はそこ(今朝の夢の中)では死なないことがわかっていたので恐怖は無かったし、周囲が生死を巡る活況にあって良い気分だった。
熟練の機長(眼鏡をかけた初老の男性)は死ななかったと思うが、空中で九龍城砦的住宅棟に取り付けられていた巨大な赤いネオンの粉砕の前でがきデカの「死刑!」のポーズでストップモーション、その後落下しネオンの破片の中で腰を強打していた。無傷の俺が駆け寄ると腰をおさえながら「これは無理。俺じゃなかったらああなってた」と機長は中空を指差した。モダンなフォルムの機械制御が行き届いた飛行機が離陸直後仰向けになって海へと落ちて行くのが見えた。

Sun Jan 7 2018

1月7日。飼い猫の誕生日。もきちは11歳になった。
Instagramで元妻からメッセージをもらい気が付いたが、おれがはじめて長く接した猫であるりゅうよりも、それから、死んだ妹よりも長生きになった。
20代後半からずっと家で仕事をしているので、人生で、共に過ごす時間がもっとも長い生き物はもきちかもしれない。さっきまで一緒に寝ていたが、いまもそこで寝そべりこちらを見ている。
このところのもきちは、水を飲む量が増えているように見え、それが少々気がかり。りゅうも、妹も腎臓を悪くして亡くなった。

もきちは一昨年の暮れに体調を悪くし、その際に、原因がわからなかったためひととおりの検査を受けた。結果的に抜歯の手術で寛解したのだけれども、副次的に他に悪いところがないことがわかったのは良いことだった。大変な病院嫌いなのである。
とはいえ、もう高齢だし、猫は腎臓を悪くしやすい。体力のあるうちにもう一度検査におもむいたほうが良さそうだ。

午前、めずらしく良い内容の入電(ふだん架かってくる電話のほとんどは、いろいろの未払いを咎められるものである)。
飼い猫が誕生日とはいえ、してやれることは普段と変わりがない。少し念入りに家を掃除する。

Sat Jan 6 2018

5日の未明から、Netflixで『DEVILMAN crybaby』を観る。
今年は永井豪の画業が50周年らしく、近いうちに漫画も新装版が刊行されるようだ。世代的にほとんど直接は触れてこなかった作家なので、あらためて読みたいと思う。
というのも、『DEVILMAN crybaby』の、絶望、というよりも、希望の無い、感じは凄かった。
中盤駆け足になっていったのはいろいろの制約から選び取った抽象化だと思う。ただ、原典(漫画)に触れることによる補完が必須というわけではなく——原典が生み出した影響作品群の蓄積がどうしようもなくそこを補完する世代しか生きていない時代だからそうせざるを得ない——ところもある気がして、それはなかなかに複雑な状態であり、そうしたアクロバットを演じなくては成立が難しいという代物であったことは宿命的で、つまり、端的に作品としての成立の難度が高かったように思う。
なので、その成功を検証すべきなのだけれども、あの「絶望、というよりも、希望の無い」に繰り返し触れられるほどの生命力は10代の頃にしか無かったよ……。10代のおれはまた別の「絶望、というよりも、希望の無い」に存分に触れてきたから、いまはもう触れる必要はないと思いたいが、そうでもないかもしれないし——、というか、いま大人が向き合うべきものこそ「絶望、というよりも、希望の無い」なのかもしれず、だとすれば果たして一体いつになれば赦しをもらえるのか……。