Thu Sep 1 2016

未明、リサ・チョロデンコ『The Kids Are All Right』を観る。フランス映画が続いていたが、これはアメリカ映画。

——というのも、ここ数日、別段、フランス映画にこだわって観ていたのではなくて、フランソワ・オゾン『彼は秘密の女ともだち』を観たのを契機に、いわゆるLGBT映画を追っていたのだった。観るべき作品は山のようにあるので、とりあえず目に付いたものから観ているが、『The Kids Are All Right』はとてもよかった。
ひとつ、良いと思えなかったのは音楽で、最後に流れる『The Youth』に顕著だが、叙情的な名曲を使い過ぎていて、それらがハズしにならず、上滑りしている感触があった。MGMTを使うっていうのも、『The Youth』が名曲過ぎるせいで短絡な印象に。とはいえ、それを踏まえても(かなり大きな問題だが)映画は良かった。

いちばん、印象に残っているのは、マーク・ラファロ演じるポールというキャラクターの造形だ。
ストーリー的にも彼の登場から物語は転がり始めるが、なんというか……、彼は絶望的な、「良い人だけど、バカ」として描かれた。

映画のイントロダクションを少し説明しよう。まず、家族——婚姻関係の女性同士と、彼女たちがそれぞれ人工授精で出産した、高校卒業間近の長女と15歳の弟の四人——が主人公だ。で、ある時、弟が、人工授精のための精子を提供した、生物学上の父親に会いたいと言い出す。年齢的な問題から、彼にはその男性とコンタクトを取る術がなく、仕方なく弟から相談を受けた姉がその男性を探し出す。それがポールである。
ポールは物腰のやわらかい優しい男性で、魅力的だった。ところが、そのことが、家族の中に不和を生じさせることになり——、というのが、イントロダクション。

……ポールはさあ、良い人だし、やさしいし、頭も悪くないし素敵なんだけどさ、……やっぱり、しょせん40過ぎまで自由に生きてきた男性なんだよな……。あからさまにそういう描写があるわけではなくて、このことは、家族(家の中での出来事)のシーンによって逆照射される。彼は結婚しなかった。おそらくそのチャンスはいくらでもあった。でもしなかった。決めなかった。それが彼の時間だった。だから、家族については悪くない頭で考え得ることしかわからない。そのことが垣間見えた時、上記の絶望的な、「良い人だけど、バカ」が浮かび上がった。
これがねえ、悲しいね。悲しい——だからこの映画は素晴らしいのだけれども……。

……それにしても、諦めずに学び考えることによって唯一知れるのは、自分がいかに愚かであるかということだけだ。そして、美しいことを丁寧に確かめる作業は、愚かさを自覚している人間にしかできない気がする。

Tue Aug 30 2016

日記というよりもメモだが、引き続き、フランス映画を観ていた。
フランソワ・オゾン『Swimming Pool』と、アブデラティフ・ケシシュ『La vie d’Adèle – Chapitres 1 et 2』。

『Swimming Pool』は、作り手の孤独の映画で、滑稽だし、だから切ない。最後は『モナドの領域』の終盤を想起した。
で、『La vie d’Adèle – Chapitres 1 et 2』だけど、これは端的に見事というほかない映画だった。時間が流れていった。そして戻らない。そんな普遍を、強靭とアンバランスの共存、その連続だけで描く離れ業。

Sun Aug 28 2016

ここ数日、フランス映画ばかり観ていた。
huluで『タイピスト!』が観られることに気がつき、久しぶりにデボラ・フランソワのあの可憐を目の当たりにしようと鑑賞。その勢いで彼女の他の作品も観たくなり、ダルデンヌ兄弟の『ある子供』を観た。
『タイピスト!』は煌びやかな映画だが、『ある子供』はその真逆と言っても良いくらいに薄暗い映画だ。観始めてすぐに「薄暗い映画だな」と思い(実際、画面もすごく暗い)、そのまま「薄暗い映画だったな」と観終えたのだった。
できれば逆の順序で観たかったが、そういう導線ではなかったので仕方がない。——さてどうしたものか、と考えた後、ここは『タイピスト!』のロマン・デュリスの素晴らしさのほうに寄り添ってみようと、フランソワ・オゾン『彼は秘密の女ともだち』を観る。

ロマン・デュリスは『タイピスト!』以外に、セドリック・クラピッシュの映画への出演で何本か観ていたはずだが、それらはほとんど覚えていなかった。とにかく『タイピスト!』での彼が良かったのだ。
フランソワ・オゾンの映画を始めて観たが、『彼は秘密の女ともだち』はとても素晴らしい映画だった。そしてロマン・デュリスも当然、素晴らしかった。
中盤からはずっと涙目で、ロマン・デュリス演じるヴィルジニアとアナイス・ドゥムースティエ演じるクレールの姿を見つめた。ふたりがショッピングモールに出かけるシーンはとても美しかった……。後半のアクロバティックなようで至ってシンプルな展開や、ロマンティックな流れも素晴らしく、金字塔と言える映画だと思う。

この映画にたどり着けたのはとても良い流れだった。——というのも、今月17日の日記に書いた、

——「異性への憧れ」は、「性欲」には限らない、ただ、理解ができないため、そこへと直結せざるを得なかった感覚——それを、あらためて歪曲させずに見つめることが可能な文化基盤は、すでに整備されつつあるはずではないか?

という、上記の言葉を肯定する「そのもの」がそこにあったからだ。
また、装飾する、という行為に関しても、深い洞察がそこにはあった。クレールが初めてダヴィッドではなくヴィルジニアに会いに行くため口紅を塗ったとき、ふと、『先生の白い嘘』(著:鳥飼茜)で、美鈴が口紅を付け早藤に会いに行くシーンを思い出した。だからやっぱり、もうこのあたりからはずっと感情を揺さぶられながら映画を観ることになった。

ここ数ヶ月、意図的に自分と対面しようとしてきたところがあったのだが、それが稀有にも良いほうに作用したようだ。ずっと未整頓だったあれこれが、既知の他の事柄たちと構造を持ち始めた実感がある。そしてそれは、いままでのいろいろな思考よりもずっと根元に近い。
いま考えている六人姉妹の小説は、仮題を『天体』としているのだけれども、その理由は自分で決めておきながらも、いまひとつわかっていなかった。だけど、いずれわかることなのではないかという予感がいまはある。
「想う」とか「願う」とか「祈る」ということの本当の意味を、おれはこれまで理解してこなかったのだと思う。なぜなら、その方法を知らなかったからだ。小学校で、七夕だから、と言われ短冊に願いを書かされたが、それは、こうなれば良いな、ということをただ書くことだった。黙祷も、目を閉じ、頭の中に言葉を展開させるだけだった。それは違った。クレールが初めてダヴィッドではなくヴィルジニアに会いに行くため口紅を塗ったあの時、もしくは、美鈴が早藤に会いに行く前に口紅を塗ったあの時、それらの行為は初めて発生した。
おれがやってきたことは違った。それが構造でわかった。ようやく少しのことがわかった。だからもう見落とさないと思う。だから渇望は深まるだろう。

Thu Aug 25 2016

8日間、日記が空いたが、その間は颱風の影響で気候の変化が目まぐるしかった。そんな具合だったため、体調はさほどすぐれなかったが、ひさしぶりに鍼を打ちに行ったりしつつ仕事の日々。

写真は、ある風の強い夜が明けた朝、カーテンを開けると窓にくっついていた葉。

Wed Aug 17 2016

寝違えたのか、右の肩から首にかけてが痛む。そのせいで、いまひとつ仕事に集中できないので、夜、『MAD MAX2』を観る。

以下、直近の一連のツイート。

宝石や宝飾品は、日本の街との相性がとにかく悪い感じがする……。戦後の日本が得られなかった大きなもののひとつに、ドレスアップのための美的教養があるのではないか。オシャレ、という言葉がすでにそうだが、もう、ドレッシーなものは揶揄することでしか消化できないようになって久しい……。

しばらく前にタイ人と交流が多かった時期があり、その頃から日本における無宗教の弊害を想ってきたが、宝飾品の歴史が文化人類学と密接に関係していることから、無宗教の弊害と類似したことを、また別の視座から考えることもできる気がしてきた。

(日本には)すぐれたインダストリアルデザインを生み出す感覚と同時に、そのインダストリアルデザインにわけのわからないペイントを施す感覚が共存している。

つまり、(戦後、日本人は)物理的破壊を抑制する代わりに、感覚への(異常に)強い破壊衝動を持ってしまい、美的価値や知性を好むと同時に、それを嘲笑い、台無しの地平を前進させ続けるという自傷行為によって、安寧を得ようとしてきたのではないか。

先天的にそうしたしがらみから解放されている/洗練されている(ように見える)人を尊敬し、後天的にその解放を得ようとする人を蔑む。本質的に美しいと思えていないのに、美しいと思いたい気持ちが過剰で、恋に恋する的な、だけどそれは恥ずかしい——そんな幼稚な民度に経済が順応してしまっているのがこの国だ。

以上は、いちおう、日本という国に焦点を絞った記述だが、案外と普遍的なことなのかもしれないとも思う。と同時に、「クール・ジャパン」的なものが取り沙汰された時、それらを好んだ外国人というのは、結局のところ海外における「ヤンキー」的感性の人たちでしかなかったのでは? という疑いも、この記述の中で浮上した。

——とはいえ、ひとまずここでは「この国」の話として進めたい。

上記のインデントされた記述たちは、ある程度のところまで書かれているので、補足説明はさほどは要らないのだけれども、ひとつ、読み返してみて感じたのは、ここ4年ほどは、——自傷と嘲りによってばかりで文化や知性を消化しようとする傾向がこの国にはある——という仮定の元、物事を考えることが多いということで、一連のツイートもまた、その枠組みに装飾という文化を当て嵌めたものだ。

ただ、それは当然、一側面でしかない。
たとえば『MAD MAX: FURY ROAD』、『シン・ゴジラ』、『ゴーストバスターズ』(もちろん、いま公開されているほう。未見だが)、「ゲーム実況」の流行、といった、あまり関係性が濃くは感じられない事柄から垣間見える、いまはまだおぼろげな可能性を、同時に感じてもいる。
それはもしかすると、「正の感情とカタルシス」といったものかもしれず、となると、「自傷と嘲り」への、(待望の)カウンターカルチャーなのかもしれない。そして、まだまだ掴みかねているのだが、そこにはアップデートされつつある「性への意識」が強く関連しているようにも思える。
——「異性への憧れ」は、「性欲」には限らない、ただ、理解ができないため、そこへと直結せざるを得なかった感覚——それを、あらためて歪曲させずに見つめることが可能な文化基盤は、すでに整備されつつあるはずではないか? なぜこの国の男女は、自らを装飾することがこんなにも不得手なのか、そしてなぜこの国は、宗教的抑圧が極めて少ないのに、死刑制度の廃止を、同性間の結婚を法的に認められないのか——。
その問題への重要な手がかりの気配を、確かに感じてはいるのだが……。

だから、やはりそのことは考えなければ——、書かなければならない。
この気持ち悪さを簡単に解決してしまう/できてしまうことは、じぶんが男性である以上、極めて強く自分を傷つける可能性がある。
……危険を孕んでいるからこその可能性が、どうもそこにはある気が——、考えなければ、と書いておきながら、その何かはきっと、Don’t think Feelなものの気が……。だから、——なんとなくわかるでしょう? なんとなくわかりませんか? ねえ? なんとなく——感じ——が——。